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ポストリュードK 〜山本勘助の足跡を訪ねて〜

 武田信玄の軍師として知られる山本勘助は、その知名度とは裏腹に謎の多い人物でもあります。一時は存在そのものが伝説なのではないかと疑われていたこともありましたが、近年では、身分や武田家中での役割はともかくも、とりあえずそういう人物が実在していたらしいという事に落ち着いているようです。このようなややこしい事態を招いた原因は、勘助に関する記述が圧倒的に「甲陽軍鑑」に偏っていた事にあります。同書は戦国甲斐武田氏を語る上で避けて通る事のできない資料であると同時に、単純な誤解(あるいは意図的な曲解)による記述が相当数埋蔵されていると見られるいわく付きの史料なのです。今に伝わる勘助の大活躍のほとんどすべては、元を正すと「軍鑑」を下敷きにしたものと言われています。そんな勘助の足跡を三河地方を中心に追跡。



 一般に勘助は三河国牛久保(牛窪)の出身として知られています。現在の豊川市牛久保町です。その牛久保には長谷寺(読みは「ちょうこくじ」。「はせでら」にあらず)という寺あり、こちらには勘助の墓と伝えられるものが残されています。ここにあるのは正確には勘助の遺髪を収めた「遺髪塚」なのだそうです。もっとも、こちらの解説板では勘助の来歴について、単純に牛久保出身の人とはしていません。彼はもともと八名郡賀茂村(豊橋市賀茂町)の地侍・山本藤七郎の三男であり、15歳の時に牛久保にあった牧野氏の家臣・大林勘左衛門貞次の養子となったと解説しています。どうやら牛久保の郷土史について記した古文献に、そのように記述されている様子。残念ながら史料の信憑性の低さからあまり一般的な説ではありません。

 牧野氏は東三河一円に勢力を張り、今川氏の助力を得て西三河の松平清康(家康の祖父)らと争っていました。そういうこともあって勘助は今川氏にも縁があったと言えるわけですが、ここからイメージを膨らませて勘助に大仕事を与えたのが新田次郎です。大河ドラマ化もされた新田の小説「武田信玄」の中での勘助は、今川義元と信玄の間でダブルスパイとして働き、ついには信玄と信長の共謀による「桶狭間」を成功させた立役者として描かれています。さすがにこれはドラマでありフィクションであるのですが、これは「正史」の勘助が川中島に死す前年の事でした。やや蛇足。


 長谷寺に行った直後、当時の中日新聞の東三河版に、翌年の勘助大河ドラマ化に向けて鼻息も荒い豊橋市賀茂町の様子が紹介されていました。長谷寺の言う勘助生誕の地です。記事の伝える内容は、賀茂町内にある山本勘助生誕の地と墓(ここにもか!)に案内看板を設置したのだけれど、現物があまりに入り組んだ路地の奥にもあるために、訪問者には「分かりにくい」と不評を買っているというようなもの。こういう形で記事になってしまうのがなんだか残念ですが、まあ、そういうものがあるのならば、そちらにもいっちょ行ってみようという事で訪問してみました。

 墓があるのは本願寺というお寺で、勘助の菩提寺と言われるところです。お寺は、細く、くねくねと入り組んだ路地の突き当たりにあり、確かに土地勘がないと容易にはたどり着けないかもしれません。寺周辺のあたりの道は車一台が通るのがやっとという程度の幅しかなく、道の両側を仕切る生垣も異様に背が高いため、まるで迷路のような独特の雰囲気の路地になっています。この高い生垣には、元来風の強い土地だったこの地域において、防風林の意味合いがあったのと、川が近いので水害の時に家財道具が濁流に運び去られるのを防ぐ役割が期待されていたのだそうです。

 さて問題の本願寺、名前だけ聞くとまるで真宗=一向宗のお寺のようですが(戦国時代の三河は北陸と並び称されるほどの門徒の多い地だった)、実際の宗派は曹洞宗とのこと。過去に改宗したこともあったようで、その歴史は戦国時代以前にも遡れるという古刹です。よくよく調べてみるとここにある墓は勘助本人の墓ではなく、勘助の父の墓ということでした。墓石は風にさらされて磨耗し……というよりは削れてしまっているのですが、辛うじて「天正」と刻まれた墓銘を読み取る事ができます。その隣の隣には「道鬼居士」と刻まれた新しい墓石もあります。「道鬼」は勘助出家後の名だと伝えられていますから、これも勘助に縁のある墓なのかもしれません。ちなみにこのお寺の墓地では「山本家之墓」がよく目に付きます。大半は勘助とのつながりのないお墓でしょうが、伝統的に山本姓の多い地域なのでしょう。

 ここでお寺の奥さんの話を聞く機会がありましたが、実は奥さん、もともとはあまり勘助のことには詳しくなかったらしく、お寺を訪ねてくる勘助ファンの人から話を聞いているうちにずいぶん勘助のことに詳しくなったのだそうです。

 勘助誕生の地の碑は、本願寺から200メートルほど離れた畑の一角にありました。碑に刻まれている文言は正確には「山本晴幸生誕地」ですが、至って普通の石碑です。当地の解説によると、勘助は清和源氏の流れを汲む家の出身となるようです。もともと駿河国富士郡に住んでいたのだが、ある時賀茂に移り住み、近くにある賀茂神社の神職をしたりしていた、とのこと。勘助の出生地は、三河牛久保か駿河富士郡とされるのが一般的で、この説は富士郡出身説をも取り込むような形になっています。

 それはさておき、「賀茂説」によれば勘助は賀茂に移住してから四代目に当たるということになるようです。生年月日は明応9年(1500)8月15日。幼名は源助。三男坊であるというのは長谷寺にあった説明と同じ。このあたりが「おらが村の勘助伝説」と言ったところですが、諸所のサイトに見られる勘助情報と比べてみてもかなり食い違う箇所があるのが、山本勘助と言う人物の謎を雄弁に物語っている気がします。



 なお、今回紹介した勘助がらみの史跡の他、牛久保地域には桶狭間に倒れた今川義元の胴塚が残されています。古くは一色城と呼ばれる古城があった場所に、現在では大聖寺というお寺があり、その一角に義元の廟所が現存します。義元の首は織田に奪われており、岡部元信が奪い返すまでは生国に帰ることもままなりませんでしたが、残された胴体は家臣に背負われてこの地まで運ばれて埋葬、手近にあった石の手水鉢を墓石代わりとしたのだそうです。


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