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豊臣家の人々

豊臣家臣団セレクト@
【とよくにじんじゃ】
豊 国 神 社
豊臣秀吉生誕地
所在地:愛知県名古屋市中村区中村町



 豊臣秀吉出生の地です。現地には「豊公誕生地」の碑があります。
 今さらあえて説明する必要もないのかもしれませんが、後に臣下では最高の位である関白の座まで上り詰めた秀吉は、尾張中村に暮らす農民の子として生まれました。父は弥右衛門、母はなか。木下姓を名乗る下級武士だったとも伝えられていますが、そのあたりのことは未だにはっきりしません。史料によっては父が織田信秀の鉄砲足軽だったとしているものもありますが、弥右衛門が死んだのは1543年、つまり日本への鉄砲伝来の年であったため、これはおよそ信ずるに足りない誤伝に過ぎません。
 いずれにせよ、秀吉は城持ちの子として生まれたわけではありませんでしたから、「秀吉出生の城」なるものはありません。お城めぐりコンテンツ「お城スコープ」としては異例中の異例ですが、現在は中村公園として整備された一角にある豊国神社を秀吉出生の地として紹介しておきます。秀吉に限らず、彼を支えた子飼いの家臣団の多くも武家の出ではないため、彼を巡る人たちのルーツを探っていくと、豊臣家の基本は武家社会の主従関係とは異質の非常に家族的な集団であった事が見えてきます。
 巨大な鳥居を擁する豊国神社ですが、あまり格式ばってはおらず、周囲が公園として整備されていることもあって、何かと人の集まってくる空間となっているようです。この中村公園の一角には少年時代の秀吉の姿をかたどった「日吉丸と仲間たち」の像があります。「幼名・日吉丸」も微妙に怪しい話ではあるのですが、それはこの際良いでしょう。

豊臣家臣団セレクトA
【あさのやしき】
浅 野 屋 敷
秀吉正室・おねの実家、浅野長政屋敷址
所在地:愛知県一宮市浅野



 豊臣政権下で、有力外様大名の選抜で成り立っていたいわゆる「五大老」に対し、これを牽制するように秀吉子飼いの大名たちで組織されていた「五奉行」の筆頭である浅野長政の屋敷址です。一般的には秀吉の正室・北政所おねの実家と言った方が通りが良いかもしれません。
 おねはもともと、尾張朝日村の住人であった杉原定利の娘として生まれした。天文18年(1549)の生まれだと考えられています。後に、浅野長勝の養女となりました。長政も長勝の婿養子ですから、義姉・義弟の関係ということになります。秀吉との結婚は13歳の時、永禄4年(1561)のことです。影から秀吉を支え、姑の大政所なかにも良く仕え、家中のことも取り仕切った良妻だったと言われています。秀吉死後は淀殿と秀頼と入れ替わるようにして大坂城を出て尼となり、高台院と号して京に住みました。豊臣家滅亡後は幕府から一万三千石の化粧料を与えられ、寛永元年(1624)に没しています。
 低い身分の出だった秀吉は、家臣団を血縁姻戚で固めていますが、そんな秀吉にとって義理の弟にあたる長政は、貴重な人材でした。天文16年(1547)年生まれで、養子に入った浅野家が織田家につかえていたこともあってもともとは信長の家臣だったのですが、秀吉との縁もあってか、後に秀吉の家臣団に組み込まれています。
 秀吉の部下として着実に功績をあげてついに五奉行筆頭格にまで上り詰めましたが、関ヶ原の戦いでは東軍に味方し、和歌山32万石の領主となりました。慶長16年(1611)没。
 ちなみに忠臣蔵の赤穂浅野氏は、長政が興した浅野家の分流です。
 現在は浅野公園になっています。意外に広い公園で、庭園風に整備されていますが、雑然としていて逆にどこに何があるかわかりにくいと言う印象はあります。公園の入口あたりには、「浅野長政公宅址」の碑が立っています。この他、園内にはおね(この公園では「祢々」)の歌碑もあるとのことですが、見つけられませんでした。

豊臣家臣団セレクトB
【はちすかじょう】
蜂 須 賀 城
城主:蜂須賀正勝
所在地:愛知県あま市蜂須賀



 俗に「矢作川の橋の上で、家を出たばかりで東を目指していた頃の日吉丸を拾った野武士」として知られる蜂須賀小六正勝の居城です。国道1号線矢作橋にはこの場面を再現した像も立っていますが、これは完全な創作であるということで決着がついています。
 一般的には、蜂須賀小六といえば野盗の親玉のようなイメージで知られていますが、実際には「川筋衆」と呼ばれる一種の傭兵集団のようなものを率いて、斎藤氏や織田氏の間を渡り歩いていたため、傍からは氏素性の知れない怪しい一団のように見られていたのでしょう。
 秀吉との付き合いが本格化してくるのは、例の墨俣一夜城築城の頃からです。「川筋衆」の名前そのままに、資材の運搬や工事現場の警護などで秀吉に協力し、以降、仕えるべき大将に出会えたと思ったのか、秀吉の天下取りに最後まで尽力しました。生粋の武士・職業軍人としてだけではなく、その出自から戦闘以外の雑事にも独特のノウハウを持っていたようで、秀吉はこれを大いに役立てたと見る向きもあります。四国の長宗我部氏を下した際に阿波17万石を拝領しています。
 蜂須賀城は蜂須賀氏代々の居城で、正勝もこの城で生まれましたが、織田信秀のときにこの城を追われたと言われています。現在は、蜂須賀氏の菩提寺である蓮華寺の一画に城址碑が建てられています。お寺には正勝・家政親子の位牌が納められているほか、本堂の裏手の小山には親子の墓碑もあります。近くの住宅地には蜂須賀正勝邸址の碑も。

豊臣家臣団セレクトC
【みやうしろじょう】
宮 後 城
城主:蜂須賀正勝
所在地:愛知県江南市宮後町上河原



 蜂須賀城と同じく、小六正勝ゆかりのお城です。もともとは正勝の母・安井氏の城だったのですが、正勝は縁があって母の実家に寄寓する事になったと伝えられています。「川筋衆」の頭領としての活動は、宮後城に移ってきてからの時期のことです。
 正勝は、大永6年(1526)生まれと、秀吉より一世代上の生まれだったため、秀吉による全国統一よりも早く、天正14年(1586)に亡くなりました。以降は嫡男・家政が秀吉の下で働き続けました。関ヶ原、大坂役では、西軍・豊臣方には味方せず、さりとて徳川方にも協力しないと言うギリギリの選択をし、最終的には所領安堵に成功しました。
 蜂須賀正勝の生誕地は美和町にある蜂須賀城であると言われていますが、ここ宮後城には「蜂須賀家政公誕生之地」の碑が立っています。後の蜂須賀藩を実質的に軌道に乗せたのは、徳川家康の台頭から豊臣家滅亡までの舵取りを行った家政の功績と言えます。もっとも、家政の誕生地も父と同様美和町蜂須賀城だったとする説もあり、真相は定かではありません。
 古くは「小六屋敷」などと呼ばれていた場所のようですが、市街化されていることもあり遺構は全く残されていません。「宮後城跡」と「誕生地」の碑の間は、県道によって隔てられています。

豊臣家臣団セレクトD
【みょうぎょうじ】
妙 行 寺
加藤清正生誕地
所在地:愛知県名古屋市中村区中村町



 秀吉子飼いの武将で、賊ヶ岳七本槍の一人にも数えられる加藤清正の出生地です。現在は、名古屋城築城の際に故郷に戻ってきた清正が、両親の菩提を弔うために建立したお寺が建っています。
 清正と秀吉は、姻戚関係にありました。具体的には清正の母いとと、秀吉の母なかが従姉妹同士だったのです。ただし、生家の格では清正の方が秀吉よりも上でした。加藤家の祖先は藤原氏であるとされています。この部分に関しては例の如く詐称の可能性も否めないのですが、清正の祖父が武士階級であったことはかなり確度の高い情報であるとされています。祖父は美濃斎藤氏に仕えて犬山城代を務めた人物でしたが、織田氏の攻勢にあって討ち死にしました。父もまた斎藤氏に仕え美濃今須城の城代の任についていましたが、道三が子・義龍に討たれた時に尾張中村に逃れてきて、武士を捨てて鍛冶屋になったとされています。どうやら母方の実家が鍛冶屋だったようです。若干余談になりますが、秀吉の母も一説には関の鍛冶屋だと言われています。
 この清正の生家は、本当に秀吉の家の隣としか表現のしようのない場所にありました。母親同士のゆかりもあって、虎之助を名乗っていた少年時代の清正が秀吉に取り立てられることになったのは必然だったのでしょう。
 猪武者的なイメージのある同期の猛将・福島正則に比べると智勇兼備の将という評が相応しそうな清正ですが、元武士の矜持が思慮分別にも長けた後の彼を作り、徳川幕府の中でも前田家、結城家につぐ大身の家を築き上げる素因になったのかもしれません。清正は、豊臣家滅亡に先立つ慶長16年(1611)に、熊本城で亡くなりました。
 現在の妙行寺には、「清正公誕生之地」の碑と清正像があります。

豊臣家臣団セレクトE
【ふくしままさのりせいたんち】
福島正則生誕地
福島正則生誕地
所在地:愛知県あま市二ツ寺



 福島正則は、加藤清正と同じく秀吉子飼いの筆頭格に当る人物で、賊ヶ岳七本槍の一人でもありますが、戦後の論功行賞では他の六人よりも頭ひとつ分だけ抜け出した評価を与えられた武断派の人です。幼名は市松。
 母親が秀吉の伯母だったと言われており、これまた清正同様秀吉とは姻戚関係にあったということになります。生家は桶屋だったとか大工だったと言われていますが、はっきりとしたことは分かっていません。秀吉の下に召されてからは、秀吉の正室・おねが正則・清正らの母親代わりになったと言われており、豊臣恩顧の大名である彼が大坂役の時も主家の滅亡を横目で見るだけに終わったのは、北政所となっていたおねが大坂城を出て、豊臣家の実権が淀殿に握られていたからだと見る向きもあります。
 清正の項でも書きましたが、正則にはとかく猪武者のイメージが付きまといます。今に伝えられる彼の素行を見る限りでは、実際に気性が荒く、短慮な面があったことも否めませんが、挿話的なエピソードも集めていくと、人柄は豪放磊落で義理堅い人情家、良くも悪くも稚気のある人という、いわゆる「不器用な人」と言った評を与えるのが正確なところでしょう。その点も含め、いっこくな武人気質の人だった事がうかがわれます。
 在世中は家康から与えられた所領を守りぬいた清正に対し、清正や家康よりも長く生きた正則の場合は、居城広島城を幕府に無断で改修した事を理由に改易を言い渡され、信州高野井村で没しています。
 現在正則の生家跡には、「福島正則誕生地」という新旧二つの石碑が立っていますが、正則が生まれ、暮らしていた頃の痕跡はまったく残されていません。古い方の碑が立っている奥の辺りの水田が彼の生家だったとされています。ここから少し北に行った場所には、正則の菩提寺である瑞祥山菊泉院があります。

豊臣家臣団セレクトF
【ごちゃくじょう】
御着城
黒田官兵衛が若き日を過ごした城
所在地:兵庫県姫路市御国野町御着



 黒田官兵衛孝高は、秀吉の懐刀「両兵衛」の一人として知られる知恵者です。一方、その才知を誰あろう秀吉その人に恐れられたがため、秀吉の天下統一に多くの功がありながら、それに見合った大身に取り立てられることがなかったとも言われています。
 御着城は官兵衛とゆかりの深い城です。黒田氏が主筋としていた小寺氏の城ですが、黒田氏の一族は小寺氏から重く用いられ、官兵衛の代に対織田氏の外交路線について袂を分かつまで、蜜月関係と言っても良いような関係が続いていたとされます。そのため、若き日の官兵衛も、小寺政職の近習として、その青春時代の大半を御着城で過ごしたと考えられています。
 2014年のNHK大河ドラマが黒田官兵衛であるためか、一昔前なら一部のマニアに注目されるだけで情報もまともに出ていなかった御着城も、現在ではネットでの情報収集が容易です。実際のところ、大河ドラマ化がなければ私の御着城訪問も際限なく先延べになっていたかもしれません。最寄り駅となる御着駅から城に至るまでの道案内も念が入っています。城があったのは、駅からはさほどの距離もない姫路市郊外の人口稠密地帯で、城跡は、国道2号によって公園と小寺大明神の二箇所に、縄張りを分断されているものと思われます。一応は周辺に比べて微高地になっていて、国道は切り通し状にその小丘を貫通している形です。
 その規模から推測するに、丘は純然たる自然地形ではなく土木工事の産物、いわゆる掻き揚げの城だったのかもしれません。城跡としてはそれが全てで、明瞭な遺構は残さず、史跡として、公園の隣接地に官兵衛の祖父に当たる黒田重隆らの墓所がある程度です。
 なお、付近で見かけた看板によれば、現在の城跡から至近のところを旧山陽道が通っていたようです。


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