お城スコープ > MANIACS > 家康を巡る人々の城


お城スコープ
家康を巡る人々の城

徳川家臣団セレクト@
【もりやまじょう】
守 山 城
城主:織田信光→松平清康?
所在地:愛知県名古屋市守山区市場

 松平清康は短期間のうちに一族の内訌を収め、西三河一帯を領土化した戦国初期の勇将でした。同じ頃、清康の領地と東で境を接する今川氏輝(桶狭間で倒れた義元の兄)が駿河・遠江と勢力を伸ばし、東三河までその影響力を浸透させていました。そして、西の尾張では織田信長の父・信秀が台頭しています。清康はこの二大勢力に伍して果敢に戦い、防戦一方ではなく信秀の尾張にまで攻め込む事もありました。
 天文4年(1535)年にはここ守山城にまで攻め入り、信秀の弟・信光を追ってこの城に入っています。そして12月5日の夜、些細な事から清康と松平家の運命の歯車が狂い始めます。始まりは、陣中に繋がれていた馬が暴れ出した事でした。この騒動の中、松平家家臣・阿部弥七郎が主君であるはずの清康に斬りかかり、清康はそのまま息絶えました。弥七郎の父親である阿部大蔵にはかねてから謀反の疑いがかけられており、弥七郎はこの夜の騒動を、清康が父を誅したものだと勘違いし、逆上したのでした。これが世に言う「守山崩れ」で、この時から25年後の桶狭間の戦いまで続く松平家苦闘の日々が始まるのです。
 守山城址は現在、宝勝寺となっています。もっとも、アパート裏手のこんもりとした塚の上に守山城址の石碑が立っているだけで、とても歴史的事件の舞台になった場所とは思えません。後の征夷大将軍・天下人の祖父を襲った奇禍の舞台とは言え、所詮祖父は祖父と言う事なのかもしれません。

徳川家臣団セレクトA
【いだじょう】
井 田 城
城主:酒井忠次
所在地:愛知県岡崎市井田町

 酒井忠次は、四天王の中で年齢が一回り上ということもあって、四人のうちの筆頭格とされる事が多い人物です。徳川を代表する武将である四天王のさらに筆頭ですから、事実上家康を支えた三河武士団の筆頭武将と言えます。
 生まれは大永7年(1527)で家康よりも15歳の年長。松平家の世代交代が順調に行っていたのならば、家康世代ではなく広忠(松平広忠。家康の父)世代の武将と呼ばれることになっていたことでしょう。広忠は天文18年(1549)に、父・清康同様に家臣の岩松八弥よって殺害されています。以後は前世代を知る武将として家康の近侍となり、家老の座に上り詰め、家中の重鎮となりました。後には吉田城主として、家康嫡男・岡崎信康の補佐役もつとめます。しかし、功臣の代表格である反面で汚点も残しており、家康の同盟者である織田信長が信康謀反の疑いを持った時、信長から突きつけられた疑義の多くを弁明役だったはずの忠次否定しなかったため、家康は信康を処断せざるを得ない状況に追い込まれ、このことが家康の不興を買ったようです。家康は後年になってこのことで、忠次に対して痛烈な皮肉をぶつけています。
 忠次は豊臣秀吉の逝去よりも早く、慶長元年(1596)に没しているため、家康による江戸幕府を見ることはありませんでした。
 現在の井田城址付近は岡崎市街になっており、井田城址碑は城山公園の中に立てられています。石碑の背面には忠次に関する記述もあるので注意。遺構は残されていませんが、強いて言えば周辺がちょっとした高台になっているあたりは、戦国城郭らしいのかもしれません。

徳川家臣団セレクトB
【にしくらまえじょう】
西 蔵 前 城
城主:本多忠勝
所在地:愛知県岡崎市西蔵前町

 もし徳川家康の出生地が史実とは少しずれて、例えば豊田市内にあったりしたならば、岡崎市はこの本多忠勝を地元出身の英雄に祭り上げていたでしょう。それほど戦国ファンに人気の高い忠勝の生まれた城、西蔵前城です。
 忠勝人気には裏付けがあり、「家康に過ぎたるもの」(武田信玄)、「花も実も兼ね備えた剛の者」(織田信長)など、彼をよく知る名将たちは、最大限の賛辞を送っています。もちろん徳川四天王の一人にも数えられています。天文17年(1548)に生まれ慶長15年(1610)に亡くなるまで、生涯五十七度の戦に出て、かすり傷一つ負わなかったという剛勇の武人らしいエピソードも、その名と共にあまりにも有名です。ちなみにこれについては、同じ四天王の井伊直政がわりを食っていて、「重装備で出陣しながらいつも生傷が絶えなかった」などと、事あるごとに忠勝との比較材料に使われています。
 鹿角脇立兜を着け、名槍・蜻蛉切を携えた忠勝の銅像は、彼ゆかりの城に行けば必ずと言って良いほど立っています。岡崎城では家康以外の三河武士では唯一忠勝の像も建立されているほどですが、さすがに西蔵前城址には銅像がありませんでした。立っているのは「本多平八郎忠勝誕生地」の石碑と解説の看板だけです。遺構らしきものは残されていません。民家の庭先にあり、また、近くによく吠える番犬がいるのため、あまり落ち着いて見学できる状況ではありませんでした。
 祖父・忠豊、父・忠高の居城であったとされていますが、同じ岡崎市内にあった洞城が本多氏代々の居城であったとする説もあります。

徳川家臣団セレクトC
【うえのしもむらじょう】
上野下村城
城主:榊原康政
所在地:愛知県豊田市上郷町会下(えげ)


 榊原康政は、本多忠勝と同じ天文17年(1548)に上野下村城に生まれました。
 榊原氏はもともと松平宗家から見れば陪臣にあたる家でしたが、家康に年齢が近かったこともあって近侍として見出され、そのまま家康股肱の臣となっていきます。年齢が同じ忠勝とはまさに「同期の桜」で、康政も四天王の一人。家康が参加した主だった多くの戦にことごとく参戦、その勇名は次第に高まっていきました。
 特に小牧長久手の戦いで、秀吉を誹謗中傷する檄文を書いて激怒させたエピソードが有名でしょう。秀吉は康政の首に十万石の恩賞をかけたと伝えられ、これによって彼の勇名もますます高まりました。もちろん康政はこの戦いにも生き残りました。
 関ヶ原の戦いの時には秀忠の中山道軍に参加しています。しかし秀忠は上田城攻めに手間取って、関ヶ原に遅参するという大失態を演じて家康を激怒させてしまいます。このときは康政が家康と秀忠の間をとりなし、どうにか家康の怒りがおさまった後には、康政の骨折りに感謝した秀忠に、榊原家だけは何があっても断絶させないとまで言わせています。慶長11年(1606)没。
 上野下村城があったあたりはすっかり宅地化されており(上写真)、遺構はおろかこの城の所在を知らせるような案内板の類さえありません。榊原康政生誕之地の碑は、少し北の上野城址にありますのでご注意ください。こちらは目立ちにくいながら上野城址の看板も出ています。遠目には、近くにある「こまどり食堂」の看板の方が目立ちます。この近くのこんもりとした林が上野城址です。
 

徳川家臣団セレクトD
【いいのやじょう】
井 伊 谷 城
城主:井伊氏
所在地:静岡県浜松市北区引佐町井伊谷


 井伊谷城の歴史は古く、南北朝の動乱期には後醍醐天皇の皇子・宗良親王も、時の城主であった井伊道政に奉じられてこの城に入っていた事があると、現地の解説看板は伝えています。井伊氏の一族もまた、その頃には奥浜名の井伊谷を治める領主として名を知られていたということになるのでしょう。そもそもは、藤原氏の一流が平安時代末期に井伊谷へと任官してきたことでこの地と縁付いたと言われていますから、井伊氏は500年ほどもの間に渡り、この地の領主であり続けたことになります。http://yahoo.jp/4l323h
 時代は下り、南北朝時代以上の動乱期・戦国時代。井伊家は駿河国主今川家に従属していました。時の当主、二十二代直盛は今川の総大将・義元に従軍して西上し、桶狭間で討ち死にしました。これに代わって弟・直親が井伊家を継承するも、直親もまた今川氏真によって殺害されました。直親の子・万千代は幼く、井伊家の血統は風前の灯となりますが、万千代は徳川家康に拾われ、元服すると直政を名乗るようになりました。直政は勲功を重ね、ついには徳川四天王の一人に数えられるまでになります。戦場においては常に激戦区で戦い続けた人で、「無傷の忠勝に対し…」という前述のエピソードも、そのあたりに原因が求められそうです。
 四天王の中では最年少の直政でしたが、関ヶ原の戦いで受けた傷の予後が悪く、41歳の若さで亡くなりました。しかし、幕政の時代になってみると、直政が残した彦根井伊家は四天王・譜代の中でもトップクラスの大藩になっており、後には大老井伊直弼を輩出するほどの家柄となります。
 なお、直政本人は井伊家の傍流として生を受けたため、生誕地は井伊谷城ではなく、井伊谷から程近い遠州の祝田村(下写真の辺り?)であると伝えられています。正確な場所は良く分かりません。

徳川家臣団セレクトE
【けんとうじんじゃ】
犬 頭 神 社
本多重次出生地
所在地:愛知県岡崎市宮地町馬場


 「鬼作左」と呼ばれた三河三奉行の一人、本多重次の出生地です。
 同じ本多姓の別流・本多忠勝の人気の高さは既述の通りですが、重次は忠勝ファンとはまた異なった層の人たちからの支持を集めています。家康を支えた三河武士団は質実剛健にして実直な、ある種の男くささと言うか野暮ったさを持った一団だったのですが、重次はその中でももっとも三河武士らしい三河武士の一人であったと言われています。鬼作左の通称も、戦場での槍働きに由来するものと言うよりは、主君である家康ですらも一喝してしまうような気性の荒さから来たもののようです。平たく言えば、典型的カミナリ親父といったところでしょうか。「一筆啓上」の短い手紙からも、重次の人となりがうかがえます。
 それほど気性の荒かった重次ですが、三奉行の一人に任じられているように、意外にも民政家として名を残しています。一見ミスマッチな人事のようにも見えますが、家康は「仏の高力」と呼ばれた性格温厚な高力清長と、鬼作左、「どちへんなし(公平であること)の天野三兵」こと天野康景の三名を組ませて、彼らのバランスによって領内政治を円滑に行おうと考えたようです。
 享禄2年(1529)生まれ。慶長元年(1596)没。
 現在、犬頭神社には「三河三奉行 本多作左エ門重次誕生地之碑」の碑が建てられています。重次が生まれた場所は、実際にはもう少し北のほうだったといわれていますが、道の両側に住宅地と水田が広がっているだけで、特に見るべきものはありません。
 なお、近くには新田義貞の首塚と伝わるものもあります。

徳川家臣団セレクトF
【うらべじょう】
占 部 城
城主:渡辺守綱
所在地:愛知県岡崎市国正町西浦


 「槍の半蔵」と呼ばれた武将・渡辺守綱の出生地と言われているのが、占部城です。現在、遺構は何も残っていません。というより、普通の民家の敷地内が城跡の核心部分ようで、位置まではわかるものの、さすがに一般には公開されていません。
 守綱は天文11年(1541)の生まれで、家康と同い年です。その名前からしてすでに、そこはかとなく素性を物語ろうとしているようですが、羅生門の鬼退治で知られる渡辺綱(わたなべのつな)の後裔を自称しています。
 三河一向一揆では主君よりも信仰を取って家康と敵対しますが、後に帰順し、以降は家康家臣団の一員として多くの戦に参加しています。鬼退治の武将の末裔だけあってか、戦場では指揮官ではなく一兵卒として戦う期間がかなり長かったようです。「槍の半蔵」の異名と相まって、一心不乱に敵陣へと踊りかかっていく猛将の姿が思い浮かべられます。
 実を言うと守綱についてはあまり詳しいことを知らないのですが、最終的には石高も一万石を越えたようです。ただし、尾張徳川家の祖・徳川義直付けにされたようで、厳密には大名にはなれずに終わったということになるのでしょうか。それでも長年の忠勤に報いる形で、徳川十六将の中に列せられています。元和6年(1620)、家康の死を見届けてから4年後に没しました。
 ちなみに大名の定義とは、正確には「石高が一万石以上」の「幕府直属武士」というものです。幕府直属であっても二百石以上一万石未満は旗本とされます。


徳川家臣団セレクトG
【わたりじょう】
渡 城
城主:鳥居元忠
所在地:愛知県岡崎市渡町東浦


 鳥居元忠は天文8年(1538)に三河渡城主・鳥居忠吉の三男として生まれました。家康よりは3歳の年長でした。年齢が近いこともあって13歳のときに今川の人質となっていた家康の近侍になります。主従関係ではありますが、まだ二人が子供同士だったこともあり、人質時代の苦労を共にした幼馴染ともいえる間柄だったのでしょう。はじめて家康に仕えてから慶長5年(1600)まで、つねに家康と共に戦い続けた、彼もまた生粋の三河武士でした。
 慶長5年は、関ヶ原の戦い勃発の年です。石田三成を大坂城から誘い出すための「エサ」として、家康は大軍を引き連れて会津の上杉景勝討伐に向かいましたが、京都伏見城の留守居役を元忠に任せています。いざ三成が蜂起すれば、伏見城が真っ先にその攻撃にさらされることは目に見えていました。いや、家康にしてみれば三成に起ってもらわなければ困るわけで、戦略上初めから伏見城を捨石にする心積もりでした。
 総員玉砕覚悟で出来るだけ長く三成の軍勢を釘付けにしなければならない過酷な任務を与えた家康の気持ちを元忠はすぐに察したらしく、「伏見の守兵は一人でも少なく、一人でも多く会津討伐に連れて行くように」と家康に告げたと言われています。家康出陣の前夜、主従は二人で昔語りに花を咲かせました。そしてその昔語りの終わり、元忠との別れに家康が涙したと伝えられています。
 現在の渡城址には、渡城址の碑が立っています。これまた民家の庭先のような場所ですが、見学は可能です。

▲TOP