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織田家・家臣団の城

織田家臣団セレクト@
【しょばたじょう】
勝 幡 城
城主:織田信秀
所在地:愛知県稲沢市平和町


 信長の父・織田信秀の城です。信秀は尾張守護・斯波氏の補佐役であった守護代・織田大和守の家臣でした。大和守家中では重臣に列せられる清洲三奉行の一人でしたが、足利将軍を頂点とする中世日本のヒエラルキーの中では、将軍の家来の家来のそのまた家来という位置付けとなり、戦国大名への転身を果たすのにあたっては、それほど恵まれたスタートラインに立っていたわけではありませんでした。
 とは言え世はまさに下克上の戦国時代。辣腕家の信秀は次第に頭角を表し、尾張国内で勢力を伸張していきます。天文2年(1533)頃には、今川氏豊から那古野城を奪うと、それまで居城としていた勝幡城からそこへ移り、尾張統一にむけた本格的な戦いへの足がかりとしています。
 信長が生まれたのは、ちょうどこの時期の事でした。信長の誕生年は天文3年とされていますが、信秀の那古野城奪取とどちらが先だったかは、史料の解釈次第では前後するため、信長の出生地は那古野城内ではなくここ勝幡城とする説もあります。
 現地にあるうち捨てられた(?)看板も、「一説に織田信長 この城に生まれたともゆう」と主張していますが、現在はわずかに石碑が立っているだけで、城の遺構らしきものは特に残されていません。

織田家臣団セレクトA
【すえもりじょう】
末 盛 城
城主:織田信秀→織田信勝
所在地:愛知県名古屋市千種区城山町2丁目
 信秀は、信長が誕生すると那古野城を信長に譲り渡し、自分は新たに築いた古渡城に移っていますが、天文17年(1548)には末盛城を築いてそちらに移りました。そしてその3年後、信秀はここ末盛城で最期の時を向かえました。
 信秀亡き後は、信長の弟・勘十郎信勝(信行)が末盛城に入りました。しかし、それから数年後の永禄元年(1558)、信勝は信長に対する謀反の廉で謀殺され、それからこの城に入る者は無く、廃城となりました。
 現在の末盛城址は、城山公園、そして城山八幡宮となっています。後年になってかなり手が入っていることは考えられますが、小高い丘陵地形は、戦国の城の縄張りに相応しいものだったと言えます。

織田家臣団セレクトB
【にししかじょう】
西 志 賀 城
城主:平手政秀
所在地:愛知県名古屋市北区平手町

 平手政秀は信秀・信長の二代に伝えた武将ですが、特に信長の傅役としてよく知られた人物でしょう。信長の生涯を綴ったドラマなどでは好々爺然とした人物として登場し、信長の方も心のどこかで政秀を敬慕しているように描かれることが多いようですが、実際の二人の間にはもう少し複雑な事情が存在していたようです。
 累代の家臣という事もあって織田家中における政秀の発言力は強かったようですが、家督相続後は専制君主として強力なリーダーシップを発揮したかった信長にとっては、この政秀の存在が疎ましく、自分がうつけ者のフリをすることで保護責任者である政秀の信用を失墜させ、発言力を弱めようと意図していたという見解もあります。結果的には、政秀は失脚どころか諌死を遂げていますが、果たしてうつけを装った信長の狙いはどこにあったのでしょうか。
 平手政秀邸跡=西志賀城址は現在では志賀公園となっており、公園の一角に平手政秀邸址の碑があります。

織田家臣団セレクトC
【しもやしろじょう】
下 社 城
城主:柴田勝家
所在地:愛知県名古屋市名東区陸前町


 柴田勝家の前半生については意外なほど不明な点が多いのですが、どうやらこの地が出生地であったと考えられています。
 勝家は、初期には信長の弟・信勝に仕えていましたが、信勝を擁立し信長を倒そうとして失敗、この時に許され、以降は信長の腹心の部下となって働きました。織田家中随一の猛将として知られ、数々の武功を重ね、主家である織田家が勢力を拡大していくうちに北陸方面軍の総大将を任され、また、名実共に織田家中の重鎮となっていきます。が、本能寺の変後の明智光秀討伐では羽柴秀吉の後塵を拝し、清洲会議後は秀吉に立場を逆転され、両者の対立は決定的なものになります。そして、天正11年(1583)に賤ケ岳で秀吉に敗れ、居城・越前北ノ庄城で自害して果てました。
 現在の下社城跡には明徳寺が建立されています。一応微高地とはなっていますが、城の遺構らしきものは残されていません。明徳寺山門の両脇には、「下社城址」、「柴田勝家公誕生地」それぞれの碑が建てられています。

織田家臣団セレクトD
【にわながひでじょうし】
丹羽長秀城址
城主:丹羽長秀
所在地:愛知県名古屋市西区児玉3丁目

 丹羽長秀は、「甕割り柴田」、「かかれ柴田」と剛勇を賞された柴田勝家と並んで、織田家の双璧を成した重臣中の重臣です。信長は長秀を「米五郎左」とあだ名したと伝えられています。あだ名好きの信長とは言え、「米」とはあまりパッとしない感じですが、これは「米のように目立たないが、無くてはならない必要不可欠なもの」というところから来た名前ですので、信長の長秀に寄せた信頼のほどがうかがえます。実際の長秀は、オールラウンダーとして着実に成果を残していたようです。本能寺の変後の清洲会議では、勝家とは対照的に秀吉擁護の立場に立ち、長秀の支持を得た秀吉は、勝家との政争に勝利しました。後に越前123万石を秀吉に与えられますが、晩年は秀吉に加担して主家を追い落とす結果を招いたことを後悔していたとも言われます。最期には半ば乱心し、切腹して腹腔内の腫瘍を掴み出すとこれを握りつぶして果てたなどと言う凄惨な逸話も伝えられていますが、真相は不明です。
 現在は丹羽長秀邸址の石碑が立っていますが、遺構などは無く、城名さえも不明なままです。

織田家臣団セレクトE
【ひらじょう】
比 良 城
城主:佐々成政
所在地:愛知県名古屋市西区比良3丁目

 佐々成政は、はじめ信長の親衛隊である「馬廻」として召抱えられて勲功を積み、エリート部隊・黒母衣衆の筆頭に取り立てられた武将です。後には柴田勝家の北陸攻めに寄騎として参加して越中の支配体制を作り上げています。そのまま本能寺の変を迎え、勝家陣営に所属していた成政は秀吉との対決姿勢を強めていきます。勝家の滅亡後は、秀吉に与した加賀の前田利家や、越後の上杉景勝からの二面攻撃にさらされ、徳川家康を頼るも、ついには秀吉の前に膝を屈し、越中の大半を没収されていました。その後、九州征伐における働きを認められ、大幅加増で肥後へと転封されますが、太閤検地に反対する国人一揆を鎮定できず、天正16年(1589)、その責めを負って切腹しています。
 比良城は、現在の光通寺あたりにあったと考えられています。現在はすっかり宅地化が進み、往時の面影は無いようです。

織田家臣団セレクトF
【おきじょう】
沖 城
城主:林秀貞(通勝)
所在地:愛知県北名古屋市沖村

 林氏は信長の家督相続当時には、織田家の筆頭家老をつとめる家柄でした。当時の家中での序列は、林氏に次いで平手氏、佐久間氏などが続くといった具合だったようです。
 秀貞は主に内政面を担当した武将だったようですが、長年勤め上げたにもかかわらず大きな功績をあげる事がなかったため、柴田勝家はもちろん、羽柴秀吉、明智光秀らの後発組にも出世競争で水を開けられることになり、天正8年(1580)にはついに、信長の弟・信勝の謀反に加担した過去を責められて追放の憂き目にあいました。勝家の待遇を考えると、実際には「使えない高給取り」として追放された可能性が高そうです。何にせよかなり強引に追放されたのは間違いありません。織田家追放後は京に暮らしたようですが、間もなく没したといわれています。
 沖城址に立っている石碑には「林通勝邸址」としっかり記銘されていますが、最近では「通勝」は誤伝であり、林秀貞が正しいとされています。城跡は現在、松林寺になっており、石碑はその一画に立てられています。遠目には、近代に入ってからの戦争で亡くなった人の慰霊碑である「忠魂碑」の方が目立ちます。

織田家臣団セレクトG
【ごきそにしじょう】
御器所西城
城主:佐久間盛政
所在地:愛知県名古屋市昭和区御器所2丁目



 林氏の沖城の項で書いたとおり、信長の家督相続当時、佐久間氏は織田家中における序列の中で上位に位置づけられていました。元々は平氏に流れを発する家柄だと言われており、御器所に居城するようになったのは15世紀ごろのことだったと考えられています。
 信長の家臣として働いた佐久間氏の一門にはいくつかの系統がありましたが、実力主義で新顔であっても能力のある者を重用していく信長の方針の下では、急速に台頭していく柴田勝家、丹羽長秀、そして羽柴秀吉と言った武将の影で次第に存在感を発揮する機会を失っていきます。極め付けなのが佐久間信盛で、対本能寺戦線での不手際をはじめとして信長の不興を買い、古参の重臣の身でありながらも追放の憂き目に会った末路はとみに有名です。
 一方、信盛とは違って比較的に成功を収めたと言えるのが佐久間盛政です。御器所西城の標札では、盛政の系統がこの城の主だったとされています。柴田勝家に付き従って北陸戦線を戦った盛政は、前田利家に先んじて加賀御山城(後の金沢城)の城主となっていますが、賤ヶ岳の戦いにおいて不覚を取り、秀吉軍に捕縛されて刑死しました。
 城跡には現在、尾張藩祖・徳川義直と14代慶勝を祀る尾陽神社が建っています。

織田家臣団セレクトH
【こおりじょう】
小 折 城
城主:生駒家宗
所在地:愛知県江南市小折町八反畑

 生駒氏は応仁・文明期にここ、尾張小折に移り住んできたとされ、灰と油を商う運送業によって力を蓄えたと言われています(現地解説板より)。
 もっともこの生駒屋敷にゆかりの人の中でいちばん有名なのは、代々の当主ではなく、信長の側室となった吉乃の方でしょう。信長と正室・帰蝶(濃姫)の間に子はありませんでした。嫡男・信忠、次男・信雄、徳川信康室・五徳を生んだのは、信長がもっとも寵愛した吉乃で、そのこともあって彼女は信長の妻妾の中では事実上、正室と並ぶ扱いを受けていたようです。吉乃は39歳という若さで夭折しており、気性の激しい人として知られる信長も、彼女の死を深く悲しんだと伝えられています。死後は生駒氏の菩提寺である久昌寺に葬られました。
 比較的最近になって発見された『前野家文書(武功夜話)』によると、生駒屋敷には若き尾張国主であった信長や、しがない浪人に過ぎなかった木下藤吉郎らが足繁く出入していたとされ、その記述を信じるのならば、後の歴史に影響を及ぼす重大事件の契機もこの場所で作られたということになります。『前野家文書』については偽書ではないかという議論もまだ続いていますが、果たして真相は…といったところでしょう。
 「生駒屋敷の址」の碑は、布袋東保育園の一画に立っています。

織田家臣団セレクトI
【くのつぼじょう】
九 之 坪 城
城主:簗田政綱
所在地:愛知県北名古屋市九之坪

 桶狭間の戦いは信長の前半生におけるハイライトと言っても良い出来事でしょう。彼がいかにして今川義元の大軍を破ったか、近年では異説もぽつぽつと出始めているようですが、現在のところ有力視されている大方の説に共通しているのは、信長の勝利はすなはち情報戦での勝利であったとしていることでしょう。奇襲説にせよ正面突破説にせよ、信長が今川軍に攻撃を仕掛けたのは、二万五千とも号する大軍が、大軍の利を生かしきれない狭隘な窪地に駐屯していることを知ったからだとする考え方です。まさに値千金ともいえるこの情報をもたらした簗田政綱は、義元に一番槍をつけた、あるいはその首級を挙げた服部小平太や毛利新助を差し置いてこの戦の勲功第一とされ、合戦場に近い愛知郡沓掛村に三千貫の知行を得ています。この逸話は、合戦では大将首を挙げることこそ最高の勲功としていた当時の論功行賞の常識を度外視した信長の先進性と合理性を伝えるエピソードとしてつとに有名です。
 政綱のその後には不明点が多いものの、本能寺以前には死亡していたとする説があります。簗田氏一門に関する情報も多くはありませんが、子孫は徳川氏に仕え、四代目に無嗣断絶した、とも。
 彼の本領だったと思われる九之坪城址は現在、名古屋市郊外の住宅地に飲み込まれており、高齢者活動センター「ふれあいの家」の一隅に小さな石碑が建てられているばかりになりました。宅地化される前は農地だったと思われ、江戸時代を迎える頃には廃城となり、田畑に変えられていたような気がします。
 

織田家臣団セレクトJ
【あけちじょう】
明 智 城
城主:明智光秀?
所在地:岐阜県可児市瀬田


 本能寺の変は、天下に敵なしかと思われた天下人が家臣の謀叛によってあっけなく頓死してしまうという、日本史上において屈指の特異性を帯びた事件と言えます。織田信長を討ったのは、当時の織田家中でもっとも重きを成していた武将の一人・明智光秀でした。あえてそのような話をする必要はないのかもしれません。光秀の名は、彼が引き起こした大事件と共に現在でも歴史の教科書に記されています。
 名誉か不名誉かはさておき、それほどに知られた人物である明智光秀ですが、彼の前半生は謎のベールに包まれています。越前の朝倉氏に仕えていたこと、後に主を足利義昭に代え、最後には信長に仕えることになったと言われていますが、朝倉氏時代以前については確かな事がほとんど分かっていません。もちろん出生の地も不祥とされており、岐阜県内には光秀の生誕地とされる場所が三箇所存在しています。恵那市明智町にある城山(明智城)、山県市美山町の白山神社(光秀の墓が現存)、可児市瀬田の長山明智城です。実を言えばこれら三箇所の中で特にどこの信憑性が高いとする根拠もないのですが、比較的訪問しやすかった長山明智城をここで紹介しておきます。
 住宅地の裏山にある長山明智城址は、宅地造成や配水場建設のために少なからず遺構が破壊された可能性が考えられるものの、いくつかの郭跡や七名の武将を葬った墳墓である「七ツ塚」といった遺物が残されており、現地にある解説板などからは過去にこの城の調査がある程度は進められたことも分かります。必ずしも定説ではない事に断りを入れた上で現地解説の内容をここに要約すると、「康永元年(1342)の明智下野守による築城以来11代215年間にわたり明智氏の居城だったこの城は、弘治2年(1556)に斎藤義龍によって攻め落とされ、時の城主であった光秀は再起を期して流浪の身となった」とのこと。
 その後の光秀は紆余曲折を経て織田信長の家臣となり、最終的には本能寺の変を引き起こす事になったわけですが、二昔ほど前に書かれた解説板は「天下の逆賊」の汚名を着せられた光秀に対しては同情的で、郷土出身(と思われる)武将に対する思い入れの強さがうかがわれます。

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