写真:今川義元公本陣跡(高徳院)
『桶狭間の戦い』を行く

 永禄3年(1560)、駿河・遠江・三河を手中に治め、「海道一の弓取り」と謳われる大大名・今川義元は、二万五千、号して三万の大軍を起こして進撃を開始した。その行く手には、尾張を治める織田信長が控えており、両者の激突は不可避のものとなった。この戦いが、世に言う「桶狭間の戦い」である。

■今川家:当時の状況
 今川家はもともと、足利将軍家と先祖を同じくする名門の出で「御所(足利氏)が絶えれば、吉良が継ぎ、吉良が絶えれば今川が継ぐ」などとも言われた名家だった。とは言え、義元とその前世代の頃ともなると、世はまさに戦国時代。力の無い者はすぐにでも滅び去るこの時代にあって、今川氏は守護大名から戦国大名へと見事に転身を遂げ、栄華を振るっていた。そして、義元が兄・氏輝の跡を継いで家督を相続してからは、本国駿河に加え遠江の支配体制を確立し、三河までも勢力下に組み込んだ事で、今川家の栄光は頂点を極めるに至った。
 このあたりの事情から義元に西進志向があっただろう事は想像に難くないが、そんな彼の気がかりは、その背後に控える甲斐の武田晴信や相模の北条氏康の存在だった。だが天文23年(1554)には甲相駿三国同盟を締結し、いよいよ西側に大兵力を投入できる体制をつくりあげていた。
 永禄3年の頃になると、今川氏が尾張国内に確保していた諸城に対する織田氏の圧迫が強まっていた。桶狭間の戦いにつながる義元の西進は、長らく上洛を志したものであると言われ続けてきたが、二万五千の兵は織田氏を倒してなおも進軍を続け、ついには京へ攻め上るためには力不足であると見るのが妥当であり、現在では上洛説はほぼ否定されている。反面、二万五千の兵が動くと言うのはかなり大規模な軍事行動であることもまた事実であり、この進軍は前線基地の城への赴援であると同時に、織田氏との決戦に及ぶ用意があったことも考えられる。

■織田家:当時の状況
 織田信長の父・織田信秀は、尾張守護・斯波氏を補佐する守護代・織田大和守の家臣だったが、時流に乗って頭角をあらわし、ついには尾張国内で最大の勢力を張るようになっていた。信秀の病死を受けて信長が家督を継承した天文20年(1551)頃はまだ、信秀以来の尾張統一事業の真っ最中だった。その後数年に渡り、同族を中心とした国内の敵と戦いを続けたが、弘治3年(1557)に弟・信勝(信行)の謀反を鎮めた余勢をかって、ついに尾張一国を統一した。
 内憂を取り除いた信長にとっての目下最大の敵は、いつでも西進が可能な体制を築き上げ、虎視眈々と尾張を狙っていた義元だった。内なる敵を一掃した事で外敵に対抗する余裕ができた事もあり、これに備えるために尾張南部で今川の手に渡っていた鳴海などの諸城に対する監視体制を強めるようになっていった。
 とは言え、義元が尾張への進軍をはじめた時に信長が動員できた兵力は、二千〜三千程度だったと考えられている。表面上は平静を取り戻したように見えていた尾張国内も、今川と言う強力な外圧を受ければ、あっという間に空中分解する可能性が高かったのである。

沓掛城 大高城 鳴海城 丸根砦 鷲津砦 善照寺砦
中島砦 桶狭間古戦場公園  桶狭間古戦場伝説地  戦人塚 今川義基墳

沓掛城
所在地:愛知県豊明市沓掛町
 永禄3年5月18日、合戦前夜。今川義元は、運命の戦場・桶狭間から東へ4km程のところにあるこの沓掛城に入っていました。義元はここで軍議を開いたようです。
 ここまで今川軍は、織田軍からの反撃らしい反撃も受けておらず、ほとんど無人の野を行くような進軍を続けていましたが、沓掛あたりまで来ると、織田の最前線基地である諸砦は目と鼻の先の距離になります。いよいよ始まるであろう本格的な戦闘を前に、諸将と作戦を練っていたのでしょう。
 桶狭間近辺は、その名の通り今に至るまで起伏に富んだ丘陵地帯になっていますが、沓掛城はそうした丘陵地に入る少し手前に作られた平城でした。現在の沓掛城址は公園になっていますが、特に見るべきものは残っていないと言うのが実情です。
大高城
所在地:愛知県名古屋市緑区大高町字本町
 義元が沓掛城に入っていた頃、松平元康(後の徳川家康)はここ大高城に兵糧を運び入れていました。3万とも号する大軍を支えるための大量の兵糧、しかもそれを敵方の目の前で輸送する任務は困難なものでした。
 元康の松平家は、もとは三河の覇権を握れるほどの勢いを持っていましたが、元康の祖父清康が横死して以来辛酸のなめ通しで、いつしか今川の属国のような扱いに甘んじていました。この戦いの時にも、今川の尖兵として参加していたのですが、兵糧入れという敵の攻撃の矢面に立たされる厳しい使命を課せられた背景には、三河勢の忠誠を測ると共に直属部隊の損耗を避けようとする総大将義元の冷徹な計算もあったのでしょう。
 翌19日、夜も明けぬうちから元康は大高城から程近い丸根砦に攻撃を仕掛け、歴史的一戦の戦端を開いています。

▼大高城詳細
鳴海城
所在地:愛知県名古屋市緑区鳴海町字城
 鳴海城はもともと織田家に属する城だったのですが、桶狭間の戦いに先立つ事10年前の天文19年(1550)に城主の山口氏が今川方に寝返って以来、今川の武将が駐屯し、虎視眈々と尾張の様子をうかがうための橋頭堡となっていました。家督を相続した信長は、何とか尾張国内から今川氏勢力を駆逐しようと何度か尾張南部の今川方支城を攻撃しています。
 後年、弟信勝の謀反を鎮圧し、その余勢をかって同族内の戦いに決着をつけた頃には、この尾張南部地域にもより大きな戦力を投入できるようになっており、善照寺砦他の砦を築いて鳴海城への圧迫を強めています。義元が兵を起こしたのも、織田勢力によって地盤が危うくなってきた鳴海城への赴援であると共に、あわよくば一気に対織田氏戦略に決着をつけようと企てたためではないかと言う見方もあります。
 桶狭間の戦いの時、鳴海城の城将は岡部元信が務めていました。結果的に総大将義元が討ち取られるという大敗北を喫し、全軍総崩れとなった今川軍の中にあっても元信は一人気を吐き、鳴海城に立てこもって奮戦を続けました。そして、最終的には開城と交換条件で織田に挙げられていた義元の首級を取り返し、駿河本国に退陣しています。
 現在の鳴海城跡公園から天神社にかけてのあたりが鳴海城の縄張りだったようです。一帯はもともと傾斜地や丘の多い土地ですが、鳴海城のあたりも微高地となっていて、尾張三河国境を扼する城のひとつとして、織田今川両陣営から重要視されたであろうことも頷けます。遺構は特に残されていません。
丸根砦
所在地:愛知県名古屋市緑区大高町字丸根
 丸根砦は、三河から侵攻してくる今川軍を監視すると共に、今川方に属していた大高城をけん制する目的で永禄2年(1599)に鷲津砦と共に信長によって築かれた砦で、沓掛城そして鳴海城と、大高城の連絡路を遮断するような地点に位置しています。
 桶狭間の戦いの時、ここには佐久間盛重が入っていました。そして合戦当日、前夜に大高入城を果たした松平元康が、この砦に攻撃を仕掛けています。丘陵地に築かれたこの砦は、「砦」の名が示す通りに城よりは簡素ながらも曲輪や堀を備えていましたが、衆寡敵せず、元康率いる部隊の攻撃の前に盛重以下多くの戦死者を出して陥落しました。この戦いは、永禄3年5月19日未明のことだったと伝えられています。
 現在の大高緑地公園に面した丘陵地の一画が丸根砦跡ですが、かなり宅地化が進んでいます。丘の頂きあたりには雑木林が残っており、その一画には石碑が二基建てられています。
鷲津砦
所在地:愛知県名古屋市緑区大高町字鷲津山
 元康が丸根砦攻めを行っていたのと同じ頃、ここ鷲津砦でも今川の重臣・朝比奈泰能(あるいは朝比奈泰朝)らの攻撃が始まっていました。
 丸根砦と同じく大高城を監視するように築かれていたこの砦に入っていたのは、飯尾定宗や織田信平らでしたが、当時の信長の実力ではここにも大兵力を割くわけには行かず、今川勢の猛攻撃の前に多くの死者を出し、数刻後に陥落しました。丸根・鷲津の両砦が陥落した事で、義元率いる本隊の進路上の「露払い」は完了した形になります。義元が二砦の攻略が完了したと言う報を受け取ったのは、まさに桶狭間山でのことだったと考えられています。
 一方、それに先立つ事数刻前。清洲城にあった信長の下に今川軍先陣が二つの砦への攻撃を開始したと言う報せが届いていました。前日まで今川軍侵攻の報せを受けながら一向に対応するそぶりを見せることがなかった信長も、この報を受けてついに出陣の陣触れを出します。信長が清洲城を発った時、これに付き従ったのはわずか数騎だったと言われています。
 鷲津砦跡は鷲津砦公園となっています。当時のままの小高い丘は雑木林で覆われていて、丸根砦と同じくその頂上付近に石碑が建っています。
善照寺砦
所在地:愛知県名古屋市緑区鳴海町字砦
 善照寺砦は、敵の勢力下に落ちた鳴海城をけん制するために中島砦・丹下砦とともに築かれた三砦の一つでした。低地にある中島砦に対し、こちらは丘陵の頂上近い高台から鳴海城と、桶狭間を見下ろせるような場所に立地しています。
 桶狭間の戦いは織田軍による奇襲戦だったか否か。両軍の兵力に圧倒的な開きがあったにもかかわらず、数的に劣る織田軍が劇的な勝利を収めたこの戦いは、ながらく機を見るに敏な信長の指揮による電撃的奇襲戦であると考えられてきました。これを従来説としておきます。
 清洲城を主従数奇で駆け出した信長は熱田神宮で遅れてくる将兵の集結を待ち、兵がまとまった後にこの善照寺砦に入りました。従来説は、織田軍はこの後今川軍からは見えない場所を移動し、義元本隊が休憩を取っていたという田楽狭間を見下ろせる高台のうえまで駆け上ると、雨中、そこから雪崩落ちるように敵軍を襲ったと主張します。
 現在の砦跡は公園となっています。住宅密集地ですが、ちょっとした展望台があり、そこから見ると桶狭間側の様子が手にとるようにわかります。そこに立って桶狭間の様子を眺めると、今川の大軍を前にして乾坤一擲の決断を迫られた信長の心情が、わずかながら見えてくるような気がします。
中島砦
所在地:愛知県名古屋市緑区鳴海町字下中
 善照寺砦の項では、桶狭間は奇襲戦だったと言う従来説を紹介しましたが、最近の研究成果からはこの従来説がほぼ否定されています。変わって台頭してきたのが、正面から敵にあたっていったと言う新説・正攻法説です。
 善照寺砦を出たあと織田軍の進撃コースは、従来説が迂回路を進んだとしていたのに対し、新説では今川軍の真正面に位置するここ中島砦に入ったとしています。そして、ここから義元の本隊めがけて攻めかかりました。大軍が展開しにくい窪地への布陣、長期の行軍で兵が疲弊していた事もあってか、今川軍は算を乱し、大乱戦となったようです。中島砦から義元本陣とされている位置に向かって攻撃を仕掛ける場合、鷲津・丸根の両砦を落としていた朝比奈隊と松平隊に背後を衝かれ、織田軍は文字通りの袋のネズミになりかねない情況になるはずなのですが、実際にはそのような事にはなりませんでした。本隊と別働隊が連絡を取りあえないほどの混乱をきたしていたのでしょうか。
 なお、中島砦跡には何一つ遺構が残されていないばかりか、現在では普通の民家の庭先になっています。柵と門扉で囲まれた私有地ですが、土地所有者の好意で自由に見学可能との事でした。
桶狭間古戦場公園
所在地:愛知県名古屋市緑区桶狭間北3丁目
 桶狭間古戦場、そして今川義元討ち死にの地と伝えられる場所は2ヶ所あります。そのうちのひとつが、名古屋市緑区にある桶狭間古戦場公園で、この公園のあたりは、古くは田楽狭間と呼ばれていました。江戸時代の頃には一般にこのあたりが桶狭間古戦場だったと考えられていたようです。正しくは主戦地の一つと言うべきなのでしょうか。現地にある解説看板は、血が川を作り屍が山を成したこの戦いの酸鼻を伝えてくれます。
 公園そのものは小さなもので、住宅街の一角にあるごく普通の公園と言う雰囲気ですが、今川義元戦死之地という銘が入った石碑と、義元の墓と伝えられるもの、「今川義元公馬繋ぎのねず」、「今川義元公水汲みの泉(義元公首洗いの泉)」があります。
 「馬繋ぎのねず」のあたりには義元の亡霊が出るという言い伝えがあり、その怨念のためか木に触れると高熱にうなされるとも伝えられています。
 また、「今川義元公水汲みの泉(義元公首洗いの泉)」は、この地に陣を布いた義元が喉の渇きを潤し、首を断たれた後にはその首を洗い清めるのに使われた泉だということです。現在では永禄の頃の面影はなく、親水地のようになっています。なお、その昔にはこの泉に桶を浮かべて旅人の渇きを癒すのに供したのでこの地を桶狭間と呼ぶようになった、と言う逸話もあります。
 公園近くの長福寺は義元の首実検が行われた場所で、義元本人と重臣・松井宗信の木像があります。ちなみに、合戦の前に今川軍に酒を献じたのはこの寺の住職と近隣の村人でした。
桶狭間古戦場伝説地
所在地:愛知県豊明市栄町
 2ヶ所存在する桶狭間古戦場、そして義元最期の地の残り一つがここ、愛知県豊明市にある桶狭間古戦場伝説地です。
 こちらは国の指定を受けた史跡ではあるのですが、あくまで「伝説の地」として史跡の指定を受けたものであって、名古屋市緑区の古戦場公園とここのどちらが本当に義元が倒れた場所であるかの結論は、未だ出ていません。
(写真上部左:「史蹟桶狭間古戦場」の石碑、上部中央:昭和12年国定史蹟指定時の石碑?)

 古戦場伝説地近くには、義元の墓と、義元自身や松井宗信をはじめとする7人の武将を祭る塚と伝えられている七石表があります。
(写真右上段:七石表(1)。義元が戦死した場所を示していると伝えられるもの、右中段:義元の墓)

 古戦場伝説地のとなりにある高徳院の本堂近くには「今川義元公本陣跡」の石碑(ページトップの写真)もあり、見所の多さに限定して言うのであれば、古戦場伝説地周辺は古戦場公園を上回っています。高徳院には他にも、合戦から時を経て新たに建立されたもう一つの義元の墓(写真右下段)、松井宗信の墓と彼を祭る七石表の二(写真:下部)、戦死者の霊を慰めるために祭られたお化け地蔵(写真上部右)などもあります。

 なお、同じ境内には最近まで桶狭間の戦いに関する資料館も開設されていたのですが、2004年夏現在で斎場に模様替えされています。資料館については何らかの形で存続していくようなのですが…。
戦人塚
所在地:愛知県豊明市前後町仙人塚
 豊明市内の高台の住宅地の一角にある戦人塚は、桶狭間の戦いで死んだ今川の将士2500名あまりの供養のために、曹源寺二世快翁龍喜和尚がつくった塚であると言われています。実際に夥しい数の戦死者の亡骸が埋葬されていた可能性もあり、近年の宅地造成の際には付近から大量の人骨が出土したことがあったようです。このあたりの地名・「仙人塚」も本来は「戦人塚」だったようですし、「前後町」と言う名前も織田軍の兵士が切り取った今川兵の首を前と後に分けて肩にかけて運んだという経緯に由来しているとの事。
 塚そのものは小さなものですが、国指定の遺跡になっています。塚の上の石碑は後の江戸時代になって建てられた物のようです。180回忌に当たる元文年間の頃のものともいわれていますが、はっきりした事は分かりません。
今川義基墳
所在地:愛知県東海市高横須賀町今川
 義元の墓と伝えられるものは各地にありますが、東海市高横須賀町の今川集落にあるものの墓碑には、「今川義基」の銘が入っています。これは、織田氏の支配下で敵将である義元の墓をつくる事をはばかってのものだったと伝えられています。
 かつては「今川さん」と呼ばれ、船乗りや漁師の神様として、また病気平癒のご利益があるとして信仰を集めていました。同じ場所にある祠は、元治元年に常滑の今谷要蔵という船頭が海で遭難しかかりながら辛くも生還した時に、「今川さんのおかげ」と建立したものだそうです。
 今もそうなのかは良く分かりませんが、少し古い資料によると、1月・5月・9月の義元月命日(19日)には、おまつりが行われるようです。
 なお、「今川さん」信仰は尾張南部・知多地方から西三河にかけて見られるもので、一説にはここと同様の墓や祠が19ヶ所存在しているとのこと。

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