写真:馬防柵と設楽原決戦地
『長篠の戦い』を行く

 天正元年(1573)、戦国の巨星といわれた武田信玄が逝去した。その年のうちに徳川家康は、長らく彼を悩ませ続けていた三河国内の武田方支城を奪還した。その城こそが、長篠城である。武田家代替わりの間隙を縫うような、鮮やかな奪還劇だった。長篠城は、三河路の小城に過ぎない。しかし、南信から三河山岳部にかけてせめぎあいを続けていた武田徳川両陣営にとって、この城の領有は今後の戦いの行方を占う上で重要な意味合いを持っていたのである。
 天正3年(1575)5月、武田勝頼はおよそ一万五千の兵力を投入し、長篠城奪還に向けて動き出した。しかし、武田軍の昼夜を分かたぬ猛攻の前にも長篠の城兵は粘り強く抗戦を続け、ついに主君家康とその同盟者である織田信長の赴援・連合軍三万五千(あるいは三万八千)の到着まで、城を守り抜く事に成功した。
 事ここに至って勝頼は長篠城攻略を中座し、武田軍と織田徳川連合軍は、城から程近い設楽原の地で対峙した。長篠役・設楽原決戦の始まりである…。

■武田家:当時の状況
 総石高は約百三十万石。動員可能兵力は最大で三万三千人ほどだったと見られるが、当然のことながら長篠城攻めに全兵力を割く訳には行かない。
 亡き信玄が自ら後継者に指名したのは、彼から見れば孫に当たる太郎信勝だった。時に信勝6歳。もちろん、武田家の頭領として政務を執り、戦場に立っては一軍を指揮する事などできようはずも無かった。そこで信勝元服までの後見人として、信勝の父、信玄四男の勝頼が武田家の舵取りを任される事になる。しかし、かつては「諏訪四郎勝頼」だった彼は、嫡男の義信が横死し、残された上の兄が武将としての資質に欠けていたとしても、自身が信玄の正統後継者になる事はできなかった。新羅三郎義光以来の名門という自負心の強い武田家の老臣たちは、一度は他の家を継ぐはずだった人物が武田の名跡を継ぐ事を潔しとはせず、当主である信玄でさえもこの反発を抑え切る事ができなかったため、半ば両者が歩み寄るように、「後継者信勝・後見人勝頼」と言う形に落ち着いたのだった。一応は武田家の実権を握る事になった勝頼だったが、所詮は妥協の産物である。史料によっては信玄の代からの老臣の中に、勝頼を軽んじる風潮があったとも伝えている。
 その頃、日本の中枢部では織田信長が急速に台頭していた。実力において、織田家はすでに武田家を凌駕していた。信玄は稀代の名将で、そのカリスマに心酔している者も少なくなかった。そして、信玄だからこそ信長に対抗していく事ができると考え、信玄に与する者も多かった。勝頼への代替わりは、そういう考えを持つ者達に動揺を与えた。すなわち彼らは、「今後も武田に仕えていくか、それとも織田陣営に寝返るべきか」の判断を迫られたのである。
 そうした状況下で、武田家の三河侵攻の橋頭堡だった長篠城が徳川家の支配下に組み込まれているのは、特に勝頼にとっては望ましくない事態であった。三方ヶ原で大打撃を受けたはずの家康が、信玄の死を察知するやいなや長篠城を奪還したのは、勝頼を低く見ている事の表れであり、これに対して毅然と対処しなければ、日和見勢力の判断に悪影響を及ぼし、武田家中の反勝頼閥をも勢いづかせる結果を招きかねない。
 武田家に勝頼のあることを内外に示すためには、長篠城奪還が必要不可欠だった。

■徳川家:当時の状況
 総石高約五十万石。動員可能兵力は、諸条件を勘案すると最大で一万強程度か。
 先年の三方ヶ原の戦いで、家康が信玄から受けた打撃は並大抵のものではなかった。普通であれば、向こう数年は満足な軍事行動を起こせなくてもおかしくないほどの大敗だった。にもかかわらず、信玄が倒れた事もあったとは言え、家康は三方ヶ原の翌年に長篠城を奪い返している。
 家康が三方ヶ原で信玄と対決した時期は、家康にとっても、そしてその同盟者の信長にとっても、八方ふさがりの最悪の時期だったと言える。もっとも、その八方ふさがりの情況をお膳立てしていたのが、他ならぬ信玄だった。「諸悪の根源」であった信玄が去ったことで、織田・徳川の両家は今後上り坂に差し掛かると踏んでの家康の行動だったのかもしれない。
 もっとも、家康単独では勝頼の鋭鋒をかわしきれない情況にも依然変わりはなかった。勝頼が長篠城奪還に向けて動きだしたという報に接しても、結局は信長の助力を得なければこの事態に対処する事はできなかった。家康にとっての幸運は、信長が勝頼との決戦に乗り気だった事だろう。信長は、長篠城救出のためには規格外とも言える大兵力を動員し、かつ自分自身が総大将となり、設楽原に乗り込んだ。

■織田家:当時の状況
 総石高は四百万石を超えるほどだったと考えられる。総兵力も十万以上。ただし、信長の場合は敵も多かったため、一時的にとは言え対武田に投入できる兵員数には限界があった。
 信長は三方ヶ原の戦いに際して、家康の要請に応じて援軍を送っている。ただし、そのとき派遣した武将に対しては、「決戦回避」を厳命したとも言われている。同時期には信玄の指示で武田軍の別働隊が美濃に侵攻し、織田方の諸城を攻め落としてもいる。にもかかわらず信玄は、「なぜ家康に援軍を送ったのか」と信長を叱責する書状を送っており、信長はこれに対して平身低頭で対応していた。信玄に対してこのように屈辱的な応対をしなければならなかった理由は、ここで信玄との対決姿勢を露にする事は信長自身の首を締めることに他ならなかったからだ。さりとて同盟者家康を捨て駒にするわけにも行かず、両者の間でうまく立ち回れるよう、苦渋に満ちた選択をしていたのである。
 信長を巡る情勢がそれほどまでに切迫していたのは、信玄と傀儡将軍・足利義昭が画策した信長包囲網のためだった。この呼びかけにより、一向一揆や畿内の反信長勢力が同時期に決起していた。特に厄介だったのが浅井・朝倉の連合軍だった。実際には信玄が軍事行動を起こしていた頃、キーマンの一人である越前・朝倉義景は、信長をかなりのところまで追い詰めていたにもかかわらず、なぜか軍を引き払っていたのであるが、それにしても信玄との関係を決定的なところまで悪化させるのは得策ではなかった。信玄の事である。今回は乗り切ったとしても、二重三重に同様の策を張り巡らしてくる可能性は多分にあった。
 この予断を許さぬ情況を崩したのは、他ならぬ信玄の死だった。包囲網はいよいよ足並みを乱し、信長は敵対勢力を各個撃破していきさえすれば良くなったのである。もとより、当時の日本に単独で信長に敵し得る勢力はいなかった。とは言え、一筋縄では行かない強敵が存在していたのも事実で、西では毛利、そして東日本では勝頼が目下最大の敵だったのである。信長は、機を見て短期間のうちに武田を叩きたいと考えていたようだ。そこへ、武田の大軍が攻め寄せてきたという家康からの伝令。信長は、勝頼との決着をつけるチャンスが今まさに到来している事を悟った。

長篠城 丸山・大宮前激戦地 馬防柵 織田信長本陣 徳川家康本陣 首洗池
墓碑銘 甲田 信玄塚

長篠城
所在地:愛知県南設楽郡鳳来町長篠

牛淵橋より臨む長篠城

祭り間近の城址にたなびく諸将の旗

「鳥居強右衛門磔死之址」の碑
 長篠城は決して規模の大きな城ではありませんでした。それでも奥平貞昌以下五百の城兵が武田軍一万五千を相手にして援軍の到着まで持ちこたえる事ができたのは、ひとえにこの城が豊川と宇連川に臨んだ崖の上と言う要害堅固の地に立地していたためです。この城を撮影した写真の中には、付近にかかる牛淵橋からこれを捉えた構図のものがよく見受けられますが、なるほど、この位置からだと長篠城の天嶮ぶりが一目瞭然に見て取れます。
 現在の長篠城には目立った遺構は残されていませんが、五月の連休の頃にはこのあたりで長篠合戦祭りが催されます。目玉はその名の通りの火縄銃実演でしょうか。
 また、城跡から寒狭川を挟んだ対岸あたりには「鳥居強右衛門磔死之址」の石碑があります。鳥居強右衛門勝商は、武田勢によって包囲された城を抜け出し、岡崎の家康のところまで援軍を請いに行く決死行を成功させた人物ですが、城に帰る際に武田の兵に捕まっています。そして、城に向かって「援軍は来ない」と告げれば命を助けてやると言う取引を持ちかけられるも、大音声で援軍の到来を城兵に告げ、ついに磔にされたのでした。長篠城の看板に描かれている磔の侍がまさに、強右衛門その人です。強右衛門の最期こそ三河武士の鑑と感じ入った徳川家臣・向井佐平次は、彼の死に様を絵に描き残し、許されてそれを旗指物に使っていました。現在の城の看板に使われている図案は、これに由来しています。
 城跡には長篠の戦に関する資料館が併設されており、諸々の史料類もここで入手できます。設楽原歴史資料館(所在地はこちら)と合わせて、史跡探索の足がかりにすると良いでしょう。手元には「長篠・設楽原の戦い史跡案内図」と「設楽原合戦布陣図」があると便利です。

▼長篠城詳細
丸山・大宮前激戦地
所在地:愛知県新城市大宮

案内看板

先・佐久間信盛、後・馬場信房 陣地

丸山から見た主戦場
 丸山は設楽原決戦場の北端付近に位置するこんもりとした小さな丘です。開戦直後は織田の武将、佐久間信盛がここを押さえていましたが、やがて武田の宿将・馬場信房が攻撃を仕掛け、周辺は大激戦の舞台となりました。信房は信玄とともに戦場を駆けた老練な武将で、信盛を追って丸山の占拠に成功しています。
 信房はこの戦いにおける重要拠点となるこの場所に陣取って、その後の戦いの趨勢をうかがっていたようです。武田軍にとって未曾有の悲劇的な敗戦、主戦場からは離れた場所に陣取っていたため、彼は僚友が次々と鉄砲の前に倒れていく中で最後まで生き続けました。そしてその後が、信房最後の奉公となります。
馬防柵
所在地:愛知県新城市大宮

柵越しに見る戦場

馬防柵遠望

土屋昌次 柵にとりつき 大音声
 長篠の戦いは、武田の騎馬軍団と織田の鉄砲隊、古い力と新しい力の対決であったと長らく語られてきました。しかし最近では、この構図はある種のファンタジーであったとする見方が主流になってきました。俗に武田騎馬軍団と呼ばれる騎兵隊は存在せず、信玄自身が騎馬武者に固執せず新兵器鉄砲の導入には意欲的であった事がわかり、信長の「三段撃ち」も果たして現実に行われていたのだろうかと疑問視されています。「三段撃ち」に関してはいろいろ議論があり、「信長が用意した鉄砲の数は三千だったか千だったか(三千丁の根拠となっている史料では、当初「千」と記してあった部分に後から「三」と書き足した形跡があるため)」、「具体的な数はともかくかなり数を用意した事は間違いないだろうし、史料の記述を見れば「三段」撃ちではないにしても間断無い射撃を行ったであろう」などと侃侃諤諤です。
 鉄砲の使用前後に空白時間ができる事は、これを使用した経験のある者には常識となっていました。早くから鉄砲を実戦レベルで使用していた九州の島津氏などは、時間差射撃でその隙をフォローする戦法を行っています。信長の鉄砲運用は、それを発展させたものであると言って良いでしょう。鉄砲のふるさとであるヨーロッパの人間でさえ、信長の戦法を「世界でもっとも優れた戦法」と見ていたようです。ヨーロッパを見渡してみると、このような運用はマウリッツ式横陣(オランダ)よりも、グスタフの三兵戦術(スウェーデン)よりも早く、その規模までも考慮するとなると長篠以後200年ほども経過したナポレオンの時代まで行われていないようです。少なくとも戦国日本では、当時世界最新鋭の武器を用いて最新の戦術を用いた非常に高度な戦争が行われていたことになります。もっとも、弓兵による三段構え陣形はもっと古くからありますし、前述の鉄砲の数がどの程度だったかによっても信長の評価にかなりの浮沈が生じる可能性はあります。
 それははともかく、馬防柵こそがもっともよくこの戦いを象徴しているものでしょう。現在の設楽原にあるものはもちろん、最近になって復元されたものです。枠木の組み方には「織田式」と「徳川式」があったようで、その違いまで再現されています。
 武田の将・土屋昌次は、鉛玉の飛び交う戦場をくぐりぬけてこの柵にまで取り付きましたが、ついにこの場所で討ち取られています。
織田信長本陣(茶臼山)
所在地:愛知県新城市牛倉

林間にある案内板と石碑

鳥居の奥の石段上が本陣跡

石碑は古く、刻銘は読みにくい
 信長は、設楽原の戦場を見下ろす茶臼山の山頂付近、現在は稲荷社になっているあたりに本陣を置きました。自分の足で登ってみると、ちょっとしたハイキングになる程度の比高を持つ山ですが、木々が鬱蒼と茂っていたため、織田信長本陣跡の石碑があるあたりまで登っても、展望は良くありません。信長が陣取った天正の頃も、視界に関しては現在とさほどの差は無かったのではないでしょうか。主戦場からの距離は随分あるな、というのが現地を訪ねた実感です。信長はここで、山と台地に挟まれるようにして広がる設楽原から発生し、周囲の山々に跳ね返って遠雷のようにこだましてくる銃声を聞いていたのでしょう。高みの見物と言うのとは少し違いますが、巨大勢力織田軍団の総帥となっていた信長は、もう無闇に前線へと顔を出す事はせず、巌のようにここに構えていたのかもしれません。
 なお、この場所には信長の歌碑があります。現地の案内によると、「信長の歌碑」は全国的に見ても珍しいものであるとのことで、「きつねなく 声もうれしくきこゆなり 松風清き 茶臼山かね」 という歌が信長の作です。嚢中の秘を繰り出して武田軍にあたる信長の高揚した気分は伝わってきます。しかしこう言ってしまうのもなんですが、さほど印象深い歌ではありませんし、一級史料ではこの歌については触れられていない様子。それはさておき、確かに言われてみれば、各地の信長ゆかりの史跡で彼の歌碑を見た記憶はありません。有名な「敦盛」があまりにも端的に信長の精神世界を象徴しているために、彼自身の歌はあまり顧みられる事がないのでしょうか。
徳川家康本陣
所在地:愛知県新城市竹広

「家康本陣地」の石碑

家康本陣跡は現在八劔神社に

松尾山信康本陣跡も神社
 信長が茶臼山の頂きで悠然と構えていたのに対し、家康は勝頼の本陣まで数百メートルにある、最前線近くの弾正山に陣取っていました。いかに信長の戦闘意欲が高く、連合軍の主力が織田の将兵によって構成されているとは言っても、形式上この戦いは徳川配下の城・長篠城救援のための戦いですから、家康がこの場所に布陣して信長に対する義理を果たそうとしたのは当然のことではありました。しかし、その位置関係からするとどうしても、家康が信長麾下の客将程度にしか見えなくなってしまいます。これは茶臼山の信長本陣で言われている事ですが、やはりこの戦いの布陣は当時の信長の権勢を象徴するものだったのでしょう。
 ちなみに、家康の嫡男・信康の本陣は、家康と信長の陣の中間あたり、松尾山にありました。と言っても決して後方待機などではなく、信康はここで目覚しい武勲を上げたと伝えられています。同じ御曹司の身分である信長嫡男・信忠は、よほどの事が無い限りは戦闘とは無縁になるはるか後方の天神山に布陣していました。後年になって織田・徳川・武田の三家を巻き込んで勃発した築山殿事件の原因を、信長が自子信忠と信康の器量を比べて信康に対し脅威を抱いた事に求めようとする説も存在することを考えると、この戦いでの信康と信忠の境遇の差までも何やら因縁めいて見えます。
甲田
所在地:新城市八束穂字甲田

水田地帯・甲田
 甲田地区には現在、史跡らしいものは何一つ残されていませんし、民家もほとんどなく、ひたすら水田地帯が広がっているだけです。にもかかわらずここで取り上げたのは、この地に武田家の悲劇的な敗北を象徴するかのような一つの伝説が残されているためです。
 「甲田」という地名は、長篠の戦いの後になってこのあたりの泥田の中から、一つの兜が見つかった事に由来すると言われています。そしてその兜は、一説によると武田家の家宝である「諏訪法性の兜」であったなどとも言われています。件の兜はその後失われてしまいましたが、史書は勝頼の敗走が家宝を捨てながらのものだった事を伝えており、勝頼本陣と敗走経路の位置関係を考慮すると勝頼が甲田地区を駆け抜けた可能性は極めて高く、この伝説も一概には否定できないものがあります。
 たとえ伝説の信憑性を度外視するにしても、このエピソードは残酷なほど的確に武田家の凋落を暗示した逸話と言えます。
首洗池
所在地:愛知県新城市川路

首洗池と案内板

設楽原古戦場いろはかるた 首洗池編

設楽原のいたるところに道標
 電車で設楽原古戦場を訪れた場合の最寄り駅はJR飯田線・三河東郷駅となりますが、ここから主戦場方面に向かう場合、その道すがらで一番最初に出くわす史跡が、おそらくこの首洗池になります。駅から池まで向かう途中には、昔ながらの石造りの道標と、それよりはもう少し実用的な道案内もあります。
 昔はもっと天然の水場らしい池だったのかもしれませんが、現在では防火水源に指定されているらしく、かなり手を加えられているような雰囲気でした。決戦場に散った武田方将兵の首は、この池の水で洗い清められたと伝えられています。おびただしい数の首を洗ったため、ついには池の水が朱に染まるほどだったとか。もっともこのタイプの言い伝えは古戦場伝説の中では特別珍しいものではなく、過去に大きな戦があった場所に位置する水場には似たような話が存在している事も珍しくありません。
墓碑銘

▲山縣三郎兵衛昌景之碑
【山県昌景】
 山県昌景は、信玄に重く用いられた文字通りの股肱の臣でした。武田四名臣の一人でもあります。執政官としても名をはせた智勇兼備の名将だったと伝えられていますが、やはり彼の戦場での槍働きには凄まじいものがあったようです。彼は日本人の平均身長が現在よりもはるかに低かった戦国時代においても小柄と評される人物で、身長は4尺6寸(約140cm)だったと伝えられていますが、戦場にあっては敵から鬼神さながらに恐れられ、「信玄の小男」として知られていたようです。「山県の赤備え」と相まって、武田家中の最強軍団と目されていたのでしょう。容貌は上唇が裂ける奇形「兎唇」であったと伝えられ、上半身が極端に短かったなどとも言われています。聖人の不具伝承は珍しいものではなく、同じ武田家中の伝説的軍師・山本勘助も不具であったと言われていますが、万能の名将・昌景も、それに近い感覚で捉えられていたのかもしれません。どうやら、伝承自体が全くの虚偽と言うわけではなさそうです。
 昌景の勇名を一段と高めたのが、三方ヶ原の戦いでした。この戦いの際、敗走する家康に肉薄したのが昌景です。家康は昌景の猛追をかわすために、幾人もの武将を犠牲にしなければなりませんでした。結果的に家康は辛くも生き延びていますが、昌景のことを「恐ろしい武将」だと言っています。家康にとって、この時の昌景の印象はよほど鮮烈だったようで、後年になって武田家が滅亡するとその遺臣の中から昌景配下だったものたちを募り、重臣の井伊直政に命じて赤備えを再結成しています。
 設楽原で前田利家隊の銃弾に倒れた時、昌景は采配を握りしめたまま死んでいったと伝えられています。
 山県昌景の墓は、設楽原歴史資料館から程近い林の中にあります。
 

▲内藤修理亮昌豊之碑
【内藤昌豊】

「武田勝頼公指揮の地」碑
 個人的には、長篠での敗北は武田家滅亡の決定的要因だとは思っていません。その後の長期低落傾向の引き金である事は間違いありませんが、滅亡に至る致命傷になったのは、謙信亡き後の上杉家で勃発した家督争い「御館の乱」への関与の仕方だったのではないでしょうか。御館の乱では、北条家から養子に入っていた景虎と謙信の姉の息子であった景勝が相争い、勝頼は景勝を支援しています。最終的な勝者は後の歴史から分かるとおり景勝だったのですが、結果的に景虎を陥れる形になったため、それまで友好関係を保っていた北条氏との断絶を呼び、北条を織田軍の脅威に対する後ろ盾とする事ができなくなってしまったばかりか、逆に後背の重大な脅威としてしまいました。景勝は、窮地に陥った勝頼を積極的には支援しませんでした。
 なぜ勝頼は景勝に肩入れしたのか。一つには景虎の実家であるはずの北条家が景虎の支援に本腰を入れるそぶりを見せなかった事がありますが、景勝が勝頼との取引材料として持ち出してきたのが、金、武田による信濃(長野県)全域の支配、そして西上野(現在の群馬県)領有の容認でした。武田と上杉は信濃・上野の領有をめぐって争っていましたから、それなりに魅力的な話であったことは確かです。しかし、長篠の戦がこの判断に微妙な影響を与えたような気もします。信玄の信頼厚く、信玄実弟・信繁亡き後は武田の副将格と見なされ、上野箕輪城代に任じられて堅実な実績を残していた智将・内藤昌豊は長篠で討ち死にしており、敗戦後は関東方面の支配体制の再編が行われたはずです。あるいはこの新体制の運営が思わしくなかったため、勝頼には西上野の完全領土化が魅力に見えたのかもしれません。
 昌豊の墓は、「武田勝頼公指揮の地」のすぐ近くにあります。同じ場所には横田綱松の墓もありますが、こちらは比較的最近のもののようにも見え、やはり昌豊の墓の方が風格があります。なお、昌豊も武田四名臣の一人に数えられています。
 

▲横田備中守綱松之碑

▲原隼人佐昌胤之碑
【原昌胤】
 いきなりこんな話を持ち出すのもなんですが、昌胤と、「鬼美濃」と恐れられた剛勇の武将・原虎胤とは、姓は同じで名前も「○胤」と共通点が多いのに、赤の他人の関係です。しかし、最前線で戦い全身に53ヶ所もの向こう傷を受けたと言う武闘派の虎胤とは若干毛色が違いますが、信玄の傍らにあって陣馬奉行を務めた昌胤もまた、武田家の軍事面においてなくてはならない人材でした。陣馬奉行とは、洒落た表現を用いれば「軍事コーディネーター」とでもなるのでしょうか。合戦時の陣取りなど、戦のお膳立てをするどちらかと言えば裏方の仕事です。地味に見られがちな職ですが、信玄も昌胤の仕事ぶりを評して「陣取りのことは昌胤に任せよ」と述べています。昌胤の活躍ぶりは、まさにいぶし銀のそれだったのでしょう。
 昌胤の墓は、信玄塚(詳細は後述)すぐ近くの畑の傍らにあります。「設楽原古戦場いろはかるた」(所在地は信玄塚)には、「治水にも 尽くせし昌胤 ここに死す」とあります。陣馬奉行としての手腕がよく語られる昌胤ですが、治水にも尽くしたのでしょう。残念ながら内政家としての昌胤については、私ではあまり詳しい事がわかりません。
  

▲真田源太左エ門尉信綱・
真田兵部尉昌輝之碑
【真田信綱・昌輝】
 真田一族は、信玄の父信虎と対立して信濃から追われていましたが、信虎から信玄への代替わりとともに武田家に仕えるようになっています。幸綱・昌輝兄弟の父である真田幸隆(幸綱)は、信玄の対村上氏戦略で顕著な功績を残しており、そのこともあって武田家中での真田一族は、新参ながらも一目置かれる存在だったようです。
 真田信綱は幸隆の嫡男で、弟の昌輝を従えて長篠の戦いに参戦していました。設楽原決戦においては、馬場信房らとともに右翼(現在の古戦場の北端あたり)に陣取って戦っていましたが、最後は二人とも力尽きています。
 二人の兄の奇禍に遭い、「繰り上がり」で真田家を相続したのが、その頃は武藤喜兵衛を名乗っていた幸隆三男・昌幸でした。主家滅亡後は小大名として独立し、豊臣秀吉をして「表裏比興の者」と言わしめ、徳川家康にたびたび煮え湯を飲ませた謀将です。松代真田藩の祖・信幸と、「日本一の兵」・幸村(信繁)の二人は、昌幸の息子です。
 長篠の戦があったからこそ、彼らは日本の歴史に名を残す事になったのかもしれません。思えばこの戦いは、家康が自らに死の恐怖を味合わせた武田を倒し、戦国大名として生き抜いていくためには不可欠の戦いだったはずですが、皮肉な事にその戦が後々家康を悩ます武将たちを世に解き放つ結果を招き、幸村に至っては、家康が戦国乱世最後の覇者になろうというまさにその瞬間に臨んで、再び彼に死を覚悟させているのです。これこそ「因果は巡る糸車」でしょう。徳川と真田の因縁は、まさにこの戦いから始まったものでした。
 なお真田兄弟の墓と同じ場所には、禰津是広、鎌原之綱、常田春清の墓もあります。
 

▲禰津是広らも同じ場所に祀られる

▲土屋右衛門尉昌次之碑
【土屋昌次】
 信玄から勝頼へと代替わりした頃から、武田家中では二項対立の構図ができつつあったようです。すなわち、勝頼閥の若手文治派と信玄閥の武断派老臣の対立です。勝頼の身近に吏僚タイプを集め、反面で軍事を分かる人材を配置しなかった事を信玄の失敗と見る向きもあります。土屋昌次は、信玄の子飼いの若手武断派でした。年齢の近い彼を勝頼付きにしていれば長篠の戦いの結果も変わっていたかもしれませんが、信玄自身が昌次を手元に留めておきたいと思ったのでしょうか。信玄の遺言に従ってその亡骸を秘した場所は、現在の甲府市にあった昌次の屋敷であったと伝えられ、このことからも主従の信頼関係の深さがうかがえます。
 すでに別項でも触れましたが、多くの将兵が次々と倒れていく中で昌次は最終的には馬防柵にまで到達し、そこで討ち取られたと伝えられています。勇将の名に恥じないエピソードです。若年のためか武田四名臣には列せられていない昌次ですが、生きていれば後に武田の屋台骨を支える人物となっていたに違いありません。
 

▲甘利郷左衛門尉信康之碑
【甘利信康】
 甘利信康は、父信虎を追放して甲斐国主の座に着いた若き日の信玄を支えた老臣・甘利虎泰の息子です。父は上田原の戦いで板垣信方と共に討ち死にしていますので、甘利氏は親子二代に渡って戦場に散った一族と言う事になります。信玄世代の家臣団は、信玄自らが見出し育てた武将たちが中心になって活躍したためか、功臣を父に持つ信康も、その活躍はあまり伝えられていません。虎泰討ち死にの頃は信康がまだ年少だっため、父のポストをそのまま引き継げなかったと言う事もあるようです。それを能力主義と言うのかもしれませんが。
 すでに恒例にすらなった感のある設楽原古戦場いろはかるたには、こうあります。
 「雄々しくも立ち腹さばく甘利信康」。
 長篠の戦いの頃、このあたりには「ダンゾウ屋敷」という場所があったそうなのですが、そこの住人が「武田に味方する」という約束を破って織田徳川方の人夫として働いたため、そのことを恨みに思った信康は、このあたりで立ち腹をさばいたそうです。嫌がらせ自殺のような物騒な話ですが、信康の祟りを恐れた住人たちは、後にこの場所を離れたそうです。
 

▲馬場美濃守信房之碑
【馬場信房】
 信虎・信玄・勝頼の三代に仕えた馬場信房の本姓は教来石氏でした。教来石氏はもともとあまり身分の高い武士ではありませんでした。信玄の代になって見出されて勲功を積んだ結果、馬場姓を許されています。馬場氏は武田譜代の重臣でしたが、前の当主が信虎の不興をかって誅殺され、断絶状態になっていました。信房の働きに見合った待遇を与えようと言う信玄の配慮だったのでしょう。ちなみに、俗に四名臣と呼ばれる信房、昌景、昌豊、そして高坂昌信(長篠には不参戦)のいずれもが、同じような形で当時は途絶えていた名跡をついでいます。
 武田家臣団の頂点に位置する四名臣の中でも最年長の信房は、名実ともに家中の重鎮で、あらゆる局面に対応できる万能型の武将だったようです。生涯で数十回の出陣を経験しながらかすり傷一つ負う事がなかったと言われていますし、もちろん一軍を率いても有能な指揮官でした。甲州流の築城術を確立したのも信房だったと言って良いでしょう。信玄は信房の事を「一国の太守をも任せられる器量人」と評しています。信玄はまた、若かりし日の彼を支えた猛将、原虎胤が死んだ時には、虎胤にあやかるようにと信房に美濃守を名乗らせており、信房は信玄から全幅の信頼を寄せられていました。後に信房は「不死身の鬼美濃」と呼ばれるまでになっています。
 設楽原決戦では、他の老臣らと共に勝頼に対して決戦回避を進言していますがこれは受け入れられず、死地に飛び込む覚悟で戦場に立っています。緒戦には戦術上の拠点となる丸山を占拠していますが、武田の敗色が濃厚になると、再度勝頼に退却を促し、勝頼がこれを入れて撤退を開始すると、自身は数十騎の武者を引き連れてその後方に留まり、主君を安全なところまで逃がした事を確認した後、敵の将兵に自分の首を差し出したと伝えられています。
 信房の墓は、討ち死にの地と伝えられる国道257号線沿いにあります。また長篠城址近くにはこれとは別に、「馬場信房殿戦忠死之碑」(殿戦=でんせんは、味方の退路を確保するために殿=しんがりで戦う意)もあります。

▲馬場信房殿戦忠死之碑
信玄塚
所在地:愛知県新城市竹広

信玄塚・大塚

案内看板

火おんどりの由来を伝える石碑
 信玄塚は、設楽原決戦場に近い新城市竹広地区にあります。友軍の撤退で野ざらし同然の状態にあった武田方戦死者の亡骸を集め、大小二つの塚に葬ったものだと伝えられています。この戦いでは両陣営あわせて一万六千人もの戦死者が出たと伝えられています。
 長篠の戦いの頃にはもちろん信玄はこの世にありませんでしたが、それでも塚に信玄の名前がつけられたあたり、武田信玄と言う不世出の武将の存在感の大きさが伝わってきます。信玄の後継者という重責を背負わされ、暗闘の末に長篠の戦いに敗れ去った勝頼が、父の名を冠せられた塚の存在を知ったら忸怩たる思いを抱いた事でしょう。果たして、敗戦のため急速に三河地方への影響力を失った勝頼は、この塚の事を知っていたのでしょうか。

「ヤーレモッセ」の掛け声と共に
 さて、伝承どおりならおびただしい数の亡骸が埋葬されている信玄塚ですが、ここに死体を埋めてからしばらく立った頃、塚から蜂の大群が発生して往来を行く人たちに襲い掛かるようになりました。竹広の村人たちは、この蜂を戦死者の無念の思いが形を変えたものだと考え、松明に火をともしてその魂を供養したと伝えられています。これが今も残る「火おんどり」の由来です。火おんどりは現在、愛知県の無形民俗文化財に指定されており、毎年8月15日の夜には信玄塚の目の前で地元の人たちがアシとシダで作った大きな松明を振りかざし、この伝統を守り続けています。町明かりからは遠く離れた山間の集落ですから、漆黒の闇の中で赤々と燃える大松明の炎はより一層幻想的で、しかも勇壮です。
 今年(2004年)は、地区の盆踊りからの続きで行われていたようですが、例年この通りなのでしょうか。観光ずれした祭りと言う雰囲気ではなく、縁日などはもちろんありません。ただし毎年火おんどりを見に来ているらしい常連もいるようで、俄かカメラマンもかなりの数が押しかけるようです。彼らの話を立ち聞きしていると、その年その年で少しずつ祭りの段取りが変わっているようです。ちなみに実際に見てみるとよく分かるのですが、松明が燃える事で煙がもうもうと巻き起こります。供養と言うのは方便で、煙で蜂を追い払おうとしたのが始まりなのかもしれない…と不埒な事を考えたりしました。この祭りを観覧する際のベストポジションは、小塚あたりになると思います。
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