■山名宗全、赤松氏と戦う

 わずか8歳にして足利第8代将軍となった足利義政は、その特異な境遇のためか一風変わった人物に育ったようで、青年となる頃には将軍職を辞して気ままな暮らしをしたいと考えるようになったと伝えられています。問題は義政に子供がなく彼の跡目を継ぐ人間がいなかったことでしたが、それでも将軍を辞めたい義政は、適当な類縁者を自分の後釜に据えようとしました。最初に義政が後継者に選んだのは弟の義視でしたが、後に実子・義尚が誕生すると雲行きが怪しくなってきます。
 義視陣営の後見人には管領職にあった細川勝元が立っていたため、何としても我が子義尚を将軍職に就けたかった母・日野富子は、同じく幕府内の実力者の一人で、勝元とライバル関係にあった山名持豊(宗全)を頼ります。持豊は播磨(兵庫県南部)の赤松氏による嘉吉の乱を平定した功によって力をつけつつあったところで、ここであげた話に代表される幕府内での権力闘争は、やがて応仁の乱という日本史上未曾有の大乱へと発展していきました。
 但馬・播磨・丹波を結ぶ交通の要衝に位置する竹田城は、嘉吉年間、その山名持豊が家臣の太田垣光景に築かせた城です。まず間違いなく、自領の南で幕府に反旗を翻した赤松氏に対する備えの意味があったのでしょう。その竹田城と赤松氏の間の縁は、向後百年以上続きます。
 

■秀吉に下る

 太田垣氏はもともと但馬の有力国人だったようですが、山名氏の下で「山名四天王」の一角に数えられるまでになりました。後、百年余りにわたって太田垣氏代々が城主を務めますが、羽柴秀吉の中国攻めの際に落城。秀吉の弟であった小一郎秀長がこの城に入りました。特に激戦が繰り広げられた風でもなく、比高数百メートルの山頂にある城の割には容易に陥落してしまったような印象もあります。
 やがて竹田城には秀長の家臣であった桑山重晴が入封し、さらに後年になると、秀吉の勢力伸張に伴って赤松広秀が播磨竜野から移封されます。現在に残る石垣は、周辺地域諸城に見られるよりも進んだ技術(穴太積み)が用いられており、桑山氏時代から赤松氏時代に織豊系の技術を取り入れて築かれたものだと考えられています。
 広秀は後年の関ヶ原の戦いでは鳥取城攻めに参加しますが、城下への放火の責めを負い切腹。彼が竹田城最後の城主となりました。広秀の墓は現在も城下法樹寺の裏手に残されており、その墓標は古城山山頂の石垣を背負うように建っています。
 

■日本一を謳う山城

 標高353mの古城山の頂に残る竹田城の石垣は、お城ファンの間ではあまりにも有名であり、その美観は実際に圧倒的の一言に尽きます。車で山頂近くまで登ることもできる他、JR播但線竹田駅の裏手から伸びる登山道を行けば、休みなく上り続けた場合なら30分ほどで山頂に到達できるので、意外にも格別お城に興味のない観光客の訪問も多いようです。ただし、この登山道は2007年3月現在の段階で台風被害により通行止めとされており、徒歩道としては竹田小学校ルートが推奨されています。もっとも、地元の人の話によれば復旧作業は9割方は終わっていて上り下りするには特に支障がないという話ですが。
 竹田城は、旧和田山町観光協会が発行していたパンフレットによれば、その規模は南北に400m、東西に100mほどのようですが、城内最高所の天主台に立って四囲に広がる石垣の連なりを見ているともっと広い空間のように感じます。山上に整然と積み上げられた石垣の、強烈なインパクトのためかもしれません。
 山頂周辺の立ち木はきれいに切り払われているので展望は非常に良いのですが、「朝霧にけぶる竹田城」はマニアの間で特に珍重されており、興味と熱意があったらシーズンの早朝から訪城してみるのも良いでしょう。
 

(2008年03月01日 初掲)