■堀尾氏による築城

 松江城は全国に12城残る現存天守の城の一つです。今日まで残されている天守閣は江戸時代初期に堀尾吉晴によって築かれたものですが、古くは鎌倉時代ごろに付近の丘陵に築かれた末次城に起源を求められ、戦国時代には月山富田城に本拠を置いた尼子氏がこの城を戦場にしたこともありました。後、尼子氏の滅亡に伴って城は毛利氏に帰属するようになりましたが、その位置づけは大体において出雲国内における一拠点に過ぎなかったようです。
 慶長5年(1600)、関ヶ原の戦いが勃発します。吉晴はこの戦いで東軍に属し、その功により遠州浜松城から出雲隠岐二十四万石の太守となりました。当初は尼子氏以来の富田城に入った吉晴でしたが、富田城が出雲の新時代の中心地となるには不向きな場所に立地していたために、新しい城地を求める事になりました。このような経緯があって、堀尾氏の居城となるべく白羽の矢を立てられたのが末次古城址でした。一説に縄張りは小瀬甫庵の手になるものだったとも言われています。何よりも「太閤記」の著者として知られる甫庵ですが、この時期は堀尾吉晴に仕えていました。意外なことに、土木工事に優れたノウハウを有する人物だったのだとか。
 城の工事は慶長12年に開始され、完成までには4年の歳月を要しました。しかし、着工に先立つ慶長9年には吉晴の子・松江藩主二代忠氏は逝去しており、吉晴自身も慶長16年のうちに亡くなっていることから、城がある程度形になったところで工事そのものが打ち切られたとも言いわれています。さらに不運な事に、三代忠晴は跡取りがないまま寛永11年(1634)に亡くなっているので、出雲堀尾氏は忠晴の代を最後に無嗣断絶となりました。堀尾氏の後には若狭から京極忠高が移封されてきたものの、京極氏も一代で松江藩主の座から去ります。わずか5年弱の京極氏治世の後には、信濃からやって来た松平氏が根を下ろしました。今でも松江の街は、松平氏の城下町という印象の強い街となっています。

■松江城の伝説

 古いながらも宍道湖のほとりに情緒ある佇まいを残す松江城ですが、外観の風雅さとは裏腹にいくつかの怪異な伝説を残す城としても知られています。
 足掛け4年にわたった松江城の築城はかなりの難工事だったとようで、近代以前しばしば行われたように、工事の順調と速やかな完了を祈念して人柱が立てられたとも言われています。人柱は、城下の広場で行われた盆踊りに集まってきた人々の中から選ばれた美貌の生娘でした。彼女の犠牲によってか、城は無事に竣工したのですが、それ以来というもの盆踊りの夜がやってくる度に城が揺れ動くようになり、恐れをなした時の城主は、城下での盆踊りを禁止したと伝わります。別の伝説では、人柱となったのは年老いた虚無僧で、彼の吹く尺八の音が吉晴の耳に入ったために人柱にされたとも言われているようですが、やはり娘が犠牲になったとする伝説の方が一般的だったのでしょう。実は、人柱伝説を下敷きにしたかのような、もう一つの怪談が松江城には残されていました。
 時は寛永11年。前述の松平氏初代・松平直政が初めて松江城の天守閣に登ったときのこと。彼の前に突如として謎の美女が現れ、直政に向って「この城はわらわのもの」と言いました。直政が「明日にでもこのしろを与えよう」と答えると、たちどころに女の姿は消えました。そこで直政は、魚のコノシロを三宝に乗せて天守閣に供えておいたところ、三宝は翌朝城内の櫓で発見され、以来謎の女が姿をみせる事も無くなりました。これがかつて松江城内にあった祈祷櫓の別名「コノシロ櫓」の起源だと言われています。祈祷櫓のあった場所にはもともと祠か何かがあったようで、築城の際にそれを撤去したために怪異が相次いだとも伝えられています。

■城下町・松江

 現在は白山公園となった松江城には、天守閣を初めとして櫓や石垣・水堀と言った遺構が残され、藩政期の面影をとどめています。天守閣のある本丸までは、比較的早朝からでも入る事ができますが、天守閣そのものの開場は遅く、むやみに早くから城に乗り込んだ私は建物の中の様子を見ることが出来ませんでした。どうやら8時30分からの開場で、閉館は季節により前後するようです。 松江の殿様として定着した歴代の松平家当主の中でもっとも有名なのは、「不昧公(ふまいこう)」として知られる松平綱隆でしょう。茶人大名として知られ、そればかりか彼の治世中に松江の町は大きく発展しました。市内には現在も武家屋敷が残り、近くには小泉八雲の旧居もあるなど、歴史の香り漂う街となっています。

(2008年03月01日 初掲)