■清正以前

 俗に姫路城、名古屋城、そして熊本城の三城をさして「日本三名城」とか「天下三名城」などと呼ぶことがあります。熊本城はそれほどに見る人を魅了し続けてきた名城で、この城を築いたのは築城の名手と呼ばれた武将・加藤清正です。
 もともとこの地に城を築いたのは、熊本地方を支配していた菊地氏の一族・出田秀信で、これが文明年間(1469‐1486)のことでした。この城は千葉城と呼ばれます。1520年代には菊地氏の支配下にあった鹿子木親員が現在の熊本城址の一隅に隈本城を築いています。
 その後の隈本城は戦乱の時代の流れと共に転々と所属陣営を変えることになりますが、天正15年(1587)に事実上九州の支配者と君臨していた島津氏が豊臣秀吉の軍門に下ることになると、越中富山から国替えになってきた佐々成政が肥後一国の主としてこの城に入りました。ところが肥後の国人衆は成政の支配を良しとはせず、国は乱れ、成政はその責任をとって摂津尼崎で自刃して果てる運命を迎えました。
 

■熊本築城

 その成政の後に隈本城へ入ったのが、秀吉子飼いの武将・加藤清正でした。ただし、同時期の肥後にはやはり秀吉の子飼いである小西行長も入っており、肥後国は清正と行長の二人によって分割支配されることになります。この状況に変化が訪れたのは関ヶ原の戦い後のことで、西軍に属した行長を東軍の清正が討った事で、清正はついに肥後一国を与えられる事になりました。
 その翌年の慶長6年(1601)。清正はついに後々まで語り継がれる名城・熊本城の造営に着手しました。新たに築かれる熊本城は、もともとあった千葉城と隈本城を基盤にしつつ、さらに茶臼山と呼ばれる丘陵をも城域として取り込んだ壮大なものでした。工事が完成を見たのは慶長12年のことでした。
 熊本城で特に印象的なのはその石垣で、その配置の戦略的意義もさることながら、武者返しという独特の曲線を描いています。清正の築城巧手としての名声を不動のものとしたのは、この熊本城と名古屋城の築城であったことに間違いはありませんが、天下普請であった名古屋城の築城において清正は、目隠しのための幕を張り巡らせた上で石積みを行い、その工法を隠しとおしたとも言われており、熊本城に用いられたのも秘中の秘と呼べる技術だったのでしょう。
 

■西南戦争

 完成した熊本城は二つの天守閣が存在する連結式の構造となっており、一の天守閣は七層六階、二の天守閣は二層四階を誇ります。そう言えば、名古屋城も連結式天守の城です。
 清正は熊本城完成の時に二本の銀杏を植え、「この銀杏が天守閣の高さに達すれば兵乱があるだろう」と予言したと伝えられていますが、銀杏が天守閣の高さにまで育ったその年に明治維新政府と旧士族が武力衝突に至った西南戦争が勃発しています。時は明治10年(1877)のことでした。西郷隆盛率いる反乱軍は当時熊本鎮台の置かれていた熊本城に対して攻撃を仕掛けています。政府軍は西南戦争の折にはここ熊本城に篭城し、50日余りも反乱軍の猛攻に耐え続けました。この戦いの顛末について、以前深い考えもなしに「陥落」としていたところ大変お叱りを受けました。城内からの出火により、建物の大半が灰燼に帰しましたが、熊本城がいわゆる「陥落」あるいは「落城」した歴史的事実はありません。
 現在の熊本城は復元天守ですが、現在も清正に対する地元の人たちの崇敬は篤く、城内には加藤神社が建立され、「清正公(せいしょこ)さん」と呼ばれ親しまれているそうです。
 

■現存櫓と復元御殿

 そんな熊本城ですが、個人的には、何度か近くまでは寄りながら、全体を落ち着いて見学する機会に恵まれなかった城でもあります。2008年4月からは復元された本丸御殿の公開が始まり、見所が増えたこともあって再訪しました。
 目立った見所は、外観復元の天守閣、現存櫓である宇土櫓、そして復元なった本丸御殿です。
 このうち、天守閣については、展示物・構成など全国各地にある鉄筋コンクリート製の復元天主と大差はありませんが、宇土城の天守閣を移築したものだという言い伝えのあった宇土櫓は、現存十二天守の内の小柄なものに勝るとも劣らない規模を誇っており、堂々とした風格が感じられます。
 そして、最近の目玉である本丸御殿ですが、城郭御殿の復元自体は篠山城などの例こそ見られるものの、書院や広間など表舞台となる部分ばかりではなく、裏方の大御台所なども本格的な復元がなされており、また「本丸御前」など体験型のメニュー(食事?)も企画されており、見せ方についてよく考えられています。

(2008年03月01日 初掲)