■伊予の新城

 賤ヶ岳七本槍の一人として知られる加藤嘉明は、朝鮮出兵文禄の役の功により伊予に六万石の所領を与えられ、松前城(まさきじょう。正木城とも)に入りました。それに続く慶長の役でも勲功を積み、さらに四万石の加増を受けました。そして関が原の戦いを経て計二十万石の大封を得ると、伊予支配の本拠地の移転を構想するようになります。松前城は伊予灘と沼地に守られた堅城ではあったものの、大規模な城下町を営む余地を欠いており、二十万石の政庁となるには甚だ不向きでした。
 こうして嘉明が目をつけたのが、かつて伊予を領有していた大名・河野氏の城砦が置かれていた勝山でした。道後平野に突出した勝山は、城地とするには格好の地で、慶長7年(1602)になると嘉明は新城の建設に着手しています。慶長6年(1601)に湯山川(今の石手川)の河道の付け替え工事を行うと、その翌年から本格的な築城工事が開始されました。

■城の完成

 勝山はもともと、独立した二つの頂を持つ山でした。工事では南北に存在するこれらの頂上を削り、それと平行して谷間を埋め、一つの広い平地を作り、そこを新城の本丸としました。部材には湯築城や松前城の遺材を用い、城の完成は着々と迫っていましたが、竣工を目前にして嘉明は会津若松城へと転封になります。嘉明にとっては痛恨のタイミングでの領地換えでしたが、幕府にしても加藤氏の台所事情が築城のために疲弊する頃合を見計らってこの処断を下したのでしょう。一説には、松山城があまりにも堅固に出来上がったので、城と引き離すためにこうした差配をしたとも言われています。時に寛永4年(1627)のことでした。
 工事は嘉明と入れ替わりで伊予に封じられた蒲生忠知に引き継がれて完成したと考えられていますが、間もなく蒲生氏も無嗣断絶となり、今度は松平定行が入城しました。松江城の主は松平氏でようやく定着し、以降明治まで松平氏による松山藩統治が続きました。このため松山の殿様といえば、松平氏のイメージが強いようです。

■松山の象徴

 松山城の天主は、嘉明時代には五層六階を備えていたと言われていますが、後年定行が入城する段になって現在見られるような三層へと改修工事を施されています。五層天守に構造上の欠陥があったためとも、前述した「堅固に過ぎる松山城」に対する幕府の疑惑をかわす目的があったとも言われています。こうして改修なった天守閣も、天明4年(1784)の落雷で焼失し、現存しているのはその後嘉永5年(1852)に再建されたものです。
 勝山の頂から道後平野を見下ろす連立式天守は、まさに威風堂々と表現するにふさわしい立ち姿を見せています。にもかかわらず国宝扱いではなく重文級の地位に甘んじているのは、ひとえに幕末の建築物だからなのだと思いますが、松山市内から見上げる松山城には、松山出身者の多くが言うように、見る者の感動を呼び覚ます何かがあるような気がします。
 ちなみに勝山は市街地の真ん中に屹立する丘陵なのでピクニック気分で登るのにちょうど良い程度の高度ですが、東麓の東雲口(しののめぐち)から山頂の長者平(ちょうじゃがなる)までリフトやロープウェイが運行しています。それぞれメリットがありますので気分次第でどうぞ。

(2008年05月06日 初掲)