水軍の将・河野氏の居城。
湯築城
所在地
別名
愛媛県松山市道後公園
:湯月城
築城者
築城年
:河野通治
:建武年間(1334〜1338)


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■水軍の将

 松山市内の観光地と言えば、松山城と道後温泉です。「坊っちゃん湯」の愛称で知られる道後温泉本館などがあるのは、松山市内でも比較的奥まったところですが、その温泉街の入り口に道後公園があります。この公園にはその昔、伊予の戦国大名・河野氏の居城であった湯築城が築かれていました。
 河野氏はもともと伊予の土豪だったと考えられており、伊予地方を舞台にして巻き起こった藤原純友の乱の時には、河野好方が鎮定に活躍しています。これを期に河野水軍の名は天下に知られるようになりますが、承久3年(1221)に勃発した承久の乱においては、一族の中から幕府方に付く者と後鳥羽上皇方に付く者の両方が現れて分裂状態を生じたため、高まる武名とは裏腹にその実力は伸び悩みました。
 しかし河野氏の権勢が大きく減衰してから半世紀ほどが経った頃、世に言う元寇がありました。時の当主通有は水軍を率いて元軍と戦い、その軍功により失地を回復することに成功しています。湯築城が築かれたのは、通有の子・通治の時のことでした。

■伸び悩む河野氏

 伊予国内における最大勢力へと成長した河野氏でしたが、建武の新政の時期にも一族が分裂し、敵対両陣営に属して争うことがあったため、その勢力伸張は順調とは言えませんでした。河野一族は応仁の乱においても同様の内訌を繰り返しており、さらには讃岐の細川氏や周防の大内氏など近隣の有力大名からの圧迫にもさらされたこともあって、伊予国内における安定的な地位を築くことができていません。湯築城も細川氏からの攻撃により奪われていた時期があります。
 しかしこうした戦乱の中にあって、来島村上氏に率いられた河野水軍の働きは目覚しく、海路攻め寄せて来る大内氏の軍勢をたびたび撃退しますが、それすらも新たな内乱の火種となりました。当主・通直の時には、河野の家督を娘婿であり武功抜群の来島村上通康に譲ろうとして、嫡男通政を推す家中の反発を招いています。この争いの中でも湯築城は反通直勢によって攻め落とされています。最終的には通直の隠居を条件に家督争いは終息したものの、一連の経緯が河野家中における来島村上氏の影響力を増大させ、結局河野氏が自力で領国を支えていくのもままならないほどに弱体化する結果を招いただけだったとされています。
 末期の河野氏は長宗我部元親の軍門に下り、湯築城に篭って豊臣秀吉の四国征伐に抵抗していますが、後に伊予の主となる小早川隆景の軍勢の前に降伏しています。

■城郭遺跡発掘

 幾度か戦火に巻かれ、しかも陥落したことも一度ではないなど、戦乱とともにあったイメージの強い湯築城ですが、さほど規模が大きくないながらも外堀、土塁、さらに内堀に囲まれて微高地が存在する平山城のような形態を取っており、比較的戦国の城らしい面影を残していると言えます。古いお城本などには「城跡は動物園になっている」といった記述が見られ、実際に訪問するまでは史跡としてはかなり寂しいことになっているのを予想していましたが、動物園が別の場所に移転した現在では、なまじの城跡よりも城跡らしく整備されています。
 湯築城跡道後公園には、松山城築城に臨んで廃城となった後は明治ごろまで手付かずのまま放置され、後に桜の公園となり、さらに動物園を設置されたという履歴がありますが、幸いこうした歴史のおかげで遺跡が無闇に掘り返されることもなく現在に至っていました。近年では良好な保存状態であった城跡の発掘調査が行われており、その成果を元に武家屋敷などが復元されるなど、越前朝倉氏の一乗谷館跡のような史跡整備を指向しているようです。湯築城は日本城郭協会選定の日本百名城の中にも選ばれており、それほどの価値があるものなのだろうか怪訝に思っていたこともありましたが、現地を訪ねてみると、なるほど、相応の値打ちがあるのを実感できます。

(2008年05月12日 初掲)





















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