関東の名族・結城氏の城。
結城城
所在地
別名
茨城県結城市結城
:臥牛城
築城者
築城年
:結城朝光
:治承年間(1177〜1181)


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■結城氏と天下人の子

 結城氏は藤原秀郷の末裔と伝えられており、鎌倉幕府の有力御家人として関東に土着した一族でした。当地では名門で鳴らし、室町幕府の成立後も関東で重きをなしましたが、それだけに中世以前のしがらみを引きずった戦国関東の紛争を経て次第に勢力を衰微させていきます。それでもどうにか命脈を保ち得たのは、小田原北条氏や上杉氏など、その時々の関東で権勢を誇った大大名に従属した結果と言えます。
 徳川家康の関東入封に当たってもやはり、結城晴朝は家康の次男を養子として迎えています。これが結城秀康です。義父である晴朝にはもともと男児がなかったため、朝勝という養子を迎えていたのですが、これを廃しての入嗣でした。有力者に接近して家名を保つ、政略的なものであったことに疑いの余地はありません。秀康はこれに先立つこと5年前、小牧長久手の戦いにおける羽柴秀吉と家康の和睦の証として、秀吉の養子に迎えられた経歴もあります。体の良い人質でしたが、天下人秀吉の縁故となっていたことも、秀康の養子としての価値を高めました。

■廃城と新生

 この家でもっとも知名度が高い人物と思われる秀康ですが、「家康(実父)と秀吉(養父)を父とする」という修辞が物語るとおり、秀康の代で晴朝以前の結城氏とは血統的に断絶しています。後年、秀康の子孫は松平姓に復して越前に封じられることになります。この家は江戸幕府においては親藩となりましたが、家名の存続を願った晴朝の懇請により、秀康五男の松平直基が結城の系譜を事実上において継承しました。
 結城城は、結城氏の始祖・結城朝光によって築かれたとされていますが、異説によればそれより百余十年も時代の下る南北朝時代に築かれたとも考えられているようです。いずれにせよ、結城氏の成立ないしは勃興期から秀康の頃まで、結城氏の居城として存続したことは間違いなさそうで、世に名高い結城合戦はこの城を舞台に戦われました。
 前述した秀康の越前入封に際しては一度廃城となっており、秀康の時に結城氏の系譜が一つの転機を迎えたことを象徴しているようでもあります。
 さて、廃城から一世紀近くを経た江戸時代半ばの元禄13年(1700)に、新たにこの地を治めることになった水野氏により、結城城は再建されました。以後は大きな変転もなく幕末まで続きましたが、城地を同じくする以外に結城氏の城と連続性のなかったこの新城も、戊辰戦争の際に焼失しました。

■城跡に残されたもの

 結城城の跡は都市化の著しい関東地方の平城跡らしく、一部が都市公園になっていますが、到底史跡公園と呼べる水準にはありません。のみならず、近世城郭も含め、往時の結城城がいかなるものだったかが窺い知れる資料も多くはないようで、現地での解説も十分とは言えず、城跡としては見るべきものも少ない状態となっています。そうした中で、公園周辺に内堀の跡や、そこに存在した土橋の跡を見ることができるばかりです。城跡らしさを求めるなら、公園周辺の地形に注目した方が良いのかもしれません。水田に望む微高地の姿は、辛うじて城郭の本質を今に伝えています。
 最後に若干の蛇足を書き加えておくと、ここ結城城には埋蔵金伝説が残されています。晴朝が、秀康の相続によって途絶えた結城氏の正統血統が復活するときのために隠した資金であるなどとも言われています。江戸時代にはすでにあった話のようで、かの大岡忠相も、窮乏する幕府の運転資金を賄うために、発掘を試みたなどと言う逸話が残されています。

(2015年03月06日 初掲)





















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