中国の覇者・毛利元就の居城。
吉田郡山城
所在地
別名
広島県安芸高田市吉田町吉田
:なし
築城者
築城年
:毛利氏
:建武3年/延元元年(南)(1336)


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■元就と郡山城

 吉田郡山城は、中国地方制覇を成し遂げた名将・毛利元就の城として知られています。毛利氏累代の城でありながら、もともとは安芸国内における城主の立場同様に、それほど大規模なものではなかった旧城を、元就は家督の継承と同時に大幅に拡張、全山を城塞化しました。石組みや天守台跡、数十に及ぶと言われる郭跡など、現在にまで残る遺構の大半は、このときの元就の改修によって造営された部分に当ります。現在郡山城址を散策してみても、この城がかなり大規模なものであったことは容易に想像できます。城の形態としては「輪状連郭式山城」となるそうな。散策路を歩いているだけでは無数に存在するかのような大小さまざまの郭の全てを見て回ることは出来ません。
 後述する郡山合戦などは、この城が大きいだけではなく実戦にも十分耐えうるだけの機能性を備えた城であることを証明する出来事だったと言えるでしょう。智将・元就のことですから、いつかはこのような日が来ることを見通し、さらにその先の中国制覇までを見据えて城の改修を行ったようにさえ思えてきます。
 そんな郡山城も、戦国の終焉(あるいは元就自身の中国制覇完了)に伴い、城塞としての防御能力より執政府としての利便性を求められるようになります。このパラダイムシフトは多くの戦国山城に引導を渡したものであり、毛利氏の本拠も天正19年(1591)に広島城へと移されました。この時すでに元就は逝去していましたが、広島への移動は中国制覇に目処を立てた元就も考えていたものだったといわれています。廃城後の郡山城は、寛永14年(1638)にキリシタン一揆の本拠地とされることを警戒され、さらに徹底した破壊が行われました。
 

■元就の生涯

 毛利元就は、その生涯の大半を吉田郡山城で過ごしています。
 元就は、安芸国の地方領主であった毛利弘元の次男として生を受けました。毛利氏は大江広元の後裔であるとされる一族でした。当然のことながら嫡流でない元就には家督の継承権はなく、そのままであれば一部将として、安芸国内にあった猿掛城主として毛利宗家に仕えることになっていたはずです。ところが、若死にした父の跡を継いだ兄・興元も早逝、さらに兄の子である幸松丸までもが夭折したために、大永3年(1523)に家督継承とともに郡山城に入城しました。建武年間に築城されたと言われる旧城に大規模な改修の手を入れたのもこの時です。
 元就は、同時期に中国地方でしのぎを削っていた出雲の尼子氏と長門の大内氏の間で上手く立ち回り、ついにはこれらを直接あるいは間接的に打ち倒し、毛利氏による中国支配の基礎を築いて元亀2年(1571)郡山城中に没しました。
 郡山城中には、いかにも元就ゆかりの場所らしく彼の墓標が存在しています。その向かいには、「百万一心」の石碑が建っています。「百万一心」の四文字は「一日、一力、一心」と分解することが出来、「三矢の訓え」と同じく人心の団結に心を砕いたとされる元就の人となりを語る伝承なのですが、これまた「三矢」と同じく架空の伝説であるようです。
 なお、城址には元就の墓の他に、元就よりも早逝した嫡男・隆元はじめ、毛利氏累代の墓も存在しています。また、御屋敷跡(県立少年自然の家内)には元就像も立っていますが、智将・謀将と言うよりはかなり武闘派な感じの造形です。
 

■郡山合戦

 郡山合戦は、安芸守護・武田元繁と戦った有田合戦や、大内義隆を弑した陶晴賢を破った厳島合戦などと並び、戦国武将毛利元就の人生のハイライトシーンのひとつであるといって良いでしょう。
 天文9年(1540)、出雲の尼子詮久(晴久)が2万とも3万とも号する大軍を引き連れて元就の郡山城を攻略すべく進軍してきました。当時の中国地方は尼子氏と大内氏が二強として並び立っており、毛利氏は大内氏の庇護のもとようやく尼子氏の干渉を跳ね除けていると言ったありさまでした。尼子が毛利討滅に本腰を入れたとなると単独でこれに抵抗しきれるものではありませんでした。この時元就は、大内の援軍(余談ながらこの時駆けつけた援軍の将こそが、後に元就と雌雄を決することになる陶晴賢でした)を待ちながら、城下の住民を郡山城内に迎えて兵員数の増強を図るとともに、巧みな軍略を用いて数で圧倒的に上回る尼子の攻撃をしのぎきっています。元就の善戦の背景には一大城郭・郡山城が大きく貢献していることに疑いの余地はありませんが、その郡山城を拡張整備したのが他ならぬ元就なのですから、郡山合戦はまさに元就の智謀と先見の明が光った戦だと言えます。
 郡山城からは、当時尼子軍が陣取った青山・光井山(青光井山)を望むことが出来ます。郡山の城跡に立って二つ並んだ青光井山を眺めていると、谷間を縫うようにして尼子軍が進撃してきそうな錯覚に陥りました。

(2008年03月01日 初掲)



































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