戦国徳川氏の生命線となった城。
吉田城
所在地
別名
愛知県豊橋市今橋町
:なし
築城者
築城年
:牧野古白
:永正2年(1505)


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■戦国吉田城

 吉田城址は現在豊橋公園として整備されています。その一角に現在、隅櫓(鉄櫓:くろがねやぐら)が再現されている他に、石垣や深くめぐらされた空掘などが残っています。天守閣はもともと存在しませんでした。再現された隅櫓のすぐ下に流れる豊川が、この城にとっての水堀の役割を果たしていたといってよいでしょう。
 この城はもともと永正2(1505)年、今川氏に属していた豪族・牧野古白により築城されました。後の天文年間、今川義元の時代に、今川家の城代が置かれて完全に今川の城となりました。それから十余年、飛ぶ鳥を落とす勢いだった今川家の当主義元が桶狭間に倒れ、この城は諸勢力の係争地となっていきます。そんな騒乱の時代を徳川氏の支城として終えた吉田城は、家康の関東移封に伴って、池田輝政が城主となりました。
 

■豊臣政権から江戸幕府へ

 輝政時代になると吉田城は新たに縄張りを拡張し、近世城郭への変貌を遂げようとしますが、その工事の最中に再び城主が交代となります。池田氏に代わった松平氏は、しかし、大名としての規模が小さかったために池田氏時代のように大規模な改修は行いませんでした。そのためか、この城にはついに天守閣というものが築かれる事がなく、代わりに本丸御殿があるばかりでした。
 江戸時代になると、この地には徳川氏縁故の大名が次々と封じられるようになります。戦国徳川氏にゆかりの城の多くは、江戸時代にある種聖域視されるようになっていますが、この吉田城もその一例だったのかもしれません。城主が次々に変わっていった中で、松平氏の時に明治維新を迎え、廃城令を受けて破却されました。
 なお、吉田城の次に播磨へと転封された輝政は、現在に残る名城・姫路城を築き上げています。
 

■戦国徳川氏のターミナル

 もともとは今川氏の城という性格の強かった吉田城ですが、むしろ後の徳川氏にとってこそ、この城は重要だったと言ってよいでしょう。今川義元が桶狭間で討ち死にしてからしばらくすると、岡崎の松平元康はそれまでの今川の属国と言う立場から独立を果たしました。やがて、三河から今川氏勢力を一掃し、甲斐の武田信玄と結んで義元の後を襲った氏真を挟撃し、遠江をも併呑しました。やがて家康は、息子信康に岡崎城を任せると、自分は浜松城へと移りました。吉田城は三河の岡崎城と遠江の浜松城を結ぶターミナルであり、この城には重臣・酒井忠次が入っています。
 吉田城はしかし、伊那路の最南端に位置する城でもありました。信玄在命中、三河の山岳部に割拠する豪族達は信濃を領有する武田氏から圧迫を受け、武田方に従属していました。当初は共謀して今川を倒した家康と信玄でしたが、次第にその関係は悪化していきます。それに伴い、吉田城は常に、信玄という北からの脅威に晒されるようになります。吉田城が信玄の手に落ちれば、徳川氏はその勢力を真っ二つに分断される形になり、対武田氏戦略において圧倒的不利を強いられる事になります。現実に、吉田城の東2kmほどに位置していた仁連木城までが武田軍の攻撃を受けていますし、三方が原の戦い直後には徳川軍全体が反撃すらままならないほどの痛手を受け、吉田城も風前の灯でしたが、信玄の病のために辛くも死地を脱しました。その後吉田城は、勝頼時代になった直後の時期までは武田氏からの攻勢を受けましたが、事態が好転するまでの間よく持ちこたえました。
 

(2008年03月01日 初掲)





















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