名だたる名将たちの城。
米沢城
所在地
別名
山形県米沢市丸の内一丁目
:松岬城
築城者
築城年
:大江時広
:嘉禎4年/暦仁元年(1238)


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■東北の雄・伊達氏雌伏の城

 米沢城の歴史は古く、鎌倉時代の暦仁元年(1238)に大江広元の次男・時広がこの地に簡素な城を建てたと伝えられています。この時代の支配階級は戦国期に比べると氏素性のしっかりした人物であることが多く、時広の父である広元は、鎌倉幕府の初代政所別当です。時広は置賜郡長井症の地頭としてこの地にやってきたのでした。
 その大江氏は、やがて長井氏を称するようになりますが、天授6年/康暦2年(1380)に伊達宗遠によって滅ぼされました。米沢城も伊達氏の治めるところになりますが、宗遠から160年ほども過ぎた後の天文17年、当主晴宗の時代に伊達氏の本拠地とされます。晴宗はかの伊達政宗の祖父に当たり、政宗はここ米沢城で産声を上げました。境内にはそのことを示す標柱も立っています。かつての大河ドラマの影響から半ば世間一般の常識になっている情報かと思いきや、意外にも米沢城が政宗出生の地だということは知られていないようです。ともあれ、その政宗の時、小田原への遅陣の責めという形で、豊臣秀吉の命により伊達氏は岩出山城へと移ることになりました。
 余談ですが、米沢城を接収した宗遠の子が、伊達氏中興の祖と言われる9代政宗で、現在では独眼竜の二つ名で知られる17代政宗は、彼にあやかって政宗の名乗りをするようになったものです。
 

■兼続その愛−米沢城編

 伊達氏が去った後の米沢城は一時蒲生氏郷の持ち城となりますが、氏郷はまもなく死亡、そのあとを継いだ秀行の時に蒲生氏は宇都宮に移され、慶長3年(1598)に越後の上杉景勝が会津へ加増転封されたのに伴い、景勝の宰相・直江兼続が六万石とか三十万石とか言う高禄で米沢城に入れられました。
 ところがその2年後の慶長5年。関ヶ原の戦いが勃発します。石田三成が打倒家康勢力を糾合した首謀者として、そして毛利輝元が西軍の盟主として知られるこの戦いですが、合戦勃発の直接の契機を作った、あるいは家康の策略により作らされたのが景勝主従だったため、合戦終結後にはその責めを負う形で、景勝は家臣である兼続の領地だった米沢に入る事になりました。百二十万石が三十万石に削られる大幅減封でしたが、上杉藩は越後時代とほぼ同数の藩士を抱えていたためその台所事情は極めて苦しく、米沢城は必要最小限の改修のみを施しただけで済まされ、景勝と兼続は自領の殖産興業に力を入れたと伝えられています。
 そのためかどうか、現在上杉神社となっている米沢城址は土塁や水堀こそ残っているものの、城跡としては極めて簡素な印象しかありません。どうやらもともと天守閣も石垣も無い城だったのだようです。境内には上杉謙信の旗印と知られる懸かり龍や「毘」の旗がはためいていますが、城内には越後春日山城から運ばれた謙信の遺骸も安置されていたといわれています。
 

■なせばなる

 しかし景勝主従以来の努力もむなしく、上杉藩の財政は一向に改善の気配を見せることがありませんでした。さらに「泣き面に蜂」なのか、寛文4年(1664)には三十万石の石高を十五万石に削られています。事ここに至り、上杉藩はもはや藩としての体裁を保つことも難しいほどに窮余してしまいました。その時に現れた救世主こそが、上杉鷹山(治憲)です。私はあまり知りませんが。
 もっともこの人、景勝直系の子孫ではなく、上杉氏の遠縁・日向秋月家から養子に入った人物だったようです。名君の誉れ高い鷹山の施した政策は、ごく単純に言ってしまえば質素倹約に産業の興隆という極めて常識的なものだったようで、その意味では特別画期的な政策を用いたと言うわけではなさそうです。どうやら自ら先頭に立って倹約を励行する鷹山の姿勢が、名家の誇りゆえにどこか慢心的だった藩士たちの襟元を正させた面もありそうな雰囲気。鷹山の場合、単なる政策通と言うよりは強力なリーダーシップで上杉の家を救ったのかもしれません。
 何にせよ、地方の小城でありながらも、歴史上の有名人がこれほど多く関わっている城というのはなかなか珍しいような気がします。
 

(2008年03月01日 初掲)





















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