山陰最古の近世城郭。
米子城
所在地
別名
鳥取県米子市久米町
:湊山城
築城者
築城年
:吉川広家
:天正19年(1591)


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■伯耆の拠点

 島根半島の南側、宍道湖と日本海とをつなぐ中海に臨む米子城は、天正19年(1591)に、吉川広家により築城工事が始められました。現地の案内板は、この事実をもって山陰地方で最も古い近世城郭としています。城が完成を見るのは10年を経た慶長6年(1601)のことで、吉川氏に代わる新しい城主・中村一忠の代になってからでした。
 米子城完成の前年には関ヶ原の戦いが勃発しており、西軍に属した吉川氏は岩国城へと移り、東軍として働いた中村氏が駿河14万石から伯耆一国18万石の領主に進むと共に米子城に入っていました。しかし、中村氏は一忠の代を最後に十年と断たないうちに無嗣断絶。代わって米子城に入ったのは加藤貞泰でしたが、加藤氏の統治も国替えによって7年で終わりを告げます。安土桃山末期から江戸初期の米子城主は目まぐるしく変わっていますが、加藤氏が去った後は、鳥取城主池田氏の一党による預かりが続き、やがて明治維新を迎え、廃城となりました。

■豊臣恩顧の中堅…

 さて、米子城を完成させた近世大名中村氏の祖とも言えるのが中村一氏ですが、豊臣恩顧の大名の中では比較的小身で、出世も遅い部類に入ります。秀吉との縁は近江時代からと古いものの、豊臣政権下にあっては最古参となる蜂須賀氏などの後塵を拝し、加藤清正や福島正則に代表される賤ヶ岳七本槍や石田三成らの若手吏僚派など文字通りの子飼いにも禄で差をつけられ、ようやく城持ちになれた最初が米子城と言うのは、いかにも冷や飯を食わされたと言う感じがしないでもありません。三中老と言う要職につけられてはいたものの、豊臣政権において果たした役割・残した功績を考えるに、地味な古株の部下に与えられた名誉職という印象もぬぐえないところです。
 戦国武将としてはマイナーな部類に入る一氏。私も米子城を訪ねてみて初めて注目したほどの人物ですが、人生においてはタイミングの良し悪しと言うのも重要なのだと、妙に感心させられてしまう生涯です。

■湊山の城

 米子城の築かれた湊山は、標高100m弱の山でありながら、実質的に海面から立ち上がっているのも同然であるため、米子市内では相当の存在感を誇ります。米子城を訪ねるときは、山麓から主郭部のあった山頂周辺を目指すことになりますが、90mほどの比高はちょっとした山城ほどの歯ごたえがあります。
 雨中の訪問だったため霞がかった樹間の道を進み、途中で内膳丸と呼ばれる曲輪跡に立ち寄りながら、登り続けること10分ほどで山頂に到着。見事な石垣の城跡ですが、これは明治期に取り壊されていたものを、昭和の末年に修復したもののようです。かつては本丸には五重の天守と四重の櫓があったと言われていますから、現存すればかなりの威容を誇ったことでしょう。現在は礎石が見られるだけで、建物らしい建物は何もない主郭です。
 山頂では視界を遮るものも無く、天気が良ければ大山の姿も望めたことでしょう。県外人にとって、鳥取のイメージと言えばひたすら砂丘と梨ですが、地元民が考える鳥取の象徴は、伯耆富士とも呼ばれる秀麗な姿の大山で、その裾野に位置する米子城は、東の鳥取城と共に鳥取県内を代表する城です。

(2010年12月17日 初掲)















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