樋口兼続が相続した城。
与板城
所在地
別名
新潟県長岡市与板町与板
:なし
築城者
築城年
:直江実綱?
:不明


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■上杉謙信の重臣

 与板城は、上杉家中において重きを成した直江氏の本拠地です。直江氏の出自にははっきりしない部分があるものの、藤原鎌足の孫・麻呂に始まる藤原京家の後裔であると言われています。この一族が、ある時に直江荘を賜わり、直江姓を名乗るようになったのが越後直江氏の始まりとされています。
 その直江氏が史上にその名を知られるようになったのは、やはり直江大和守実綱(景綱)と、その義理の息子に当たる兼続の時でしょう。実綱は長尾為景、晴景、そして景虎(上杉謙信)の戦国長尾氏三代に仕え、政務においても軍務においても重く用いられました。
 直江氏はもともと、この与板城から少しばかり北に行った所にある本与板城を本拠としていましたが、実綱の頃に現在与板城址と呼ばれているこの場所に拠点を移してきたと考えられています。ただ、与板城にせよ本与板城にせよ、大名級の武将が在城していたわけではないために古い話になってくると不明な点が多いようです。
 

■中越支配の拠点

 与板城は、標高104mの城山に築かれた城で、古くは主要地方道長岡和島線が通っている側が大手口となっていたようです。現在は八坂神社のある辺りが与板城址登口となっています。山頂(本丸)付近にはもう何十年も前に設置されたかのような、古色蒼然とした簡易な縄張り図がありましたが、それによれば往時の大手口は現在の登り口よりも少し北にあったようにも見えます。
 城山自体は里山程度のもので、それほどの高度があるわけでもなく、従って本丸への登り道もさほど険しくはありません。堀切や土塁の跡と思われる地形を見つつ、かつては郭だったと思われるいくつかの削平地を通り過ぎていくと、10分ほどで本丸にたどり着きます。本丸跡には小さな社がありましたが、これがあるために道が整っているのでしょうか。
 登り口側から見て、本丸よりも奥に当たる位置に二の丸・三の丸があります。その他、大空堀、千人溜、狼煙台、弓場、射撃場などもあるようで、これらを経て搦め手にたどり着く縄張りになっているようですが、本丸より奥については未踏破です。与板城は中越支配の重要拠点であったとされ、登り口の案内板にも「中越を一望に収め、千体川を内壕に信濃川を外壕とした雄大な一大山城である」とありますが、本丸付近からの展望は悪く、案内にあるような城の姿をイメージしにくいのは残念なところです。
 

■兼続その愛−与板城編

 上杉謙信がこの世を去ったのは天正6年(1578)のことです。彼に実子はなく、残されたのは二人の養子でした。謙信の甥であり直江兼続の主である景勝と、小田原北条氏から養子として迎えられていた景虎です。二人の養子は上杉氏の家督をめぐって衝突しますが、「御館(おたて)の乱」と呼ばれたこの争いは、景勝方の勝利に終わりました。
 謙信の父や兄の頃から三代にわたって上杉(長尾)の家に仕えた景綱は、その前年に亡くなっていました。御館乱の当時、直江の家は、景綱の娘・お船を娶った信綱が継いでいました。しかし乱の論功行賞のもつれが発端となり、信綱は毛利秀広に殺害されてしまいます。
 後には未亡人となったお船の方だけが残され、直江の名跡は途絶えるかに思われました。しかし、越後でも屈指と言える名家の断絶を惜しんだ景勝は、未亡人となったお船と兼続を見合わせます。こうして兼続は直江家を継ぐことになりました。与板城址に残る「おせん清水」は、このお船の方にちなんだものです。
 与板城は直江の名跡と共に兼続に継承される事になりました。与板城に在城の間、兼続は城下発展の基礎を作ったと伝えられ、現在の与板歴史民族資料館には兼続像が建っています。そして城は、兼続が米沢に加増転封となるまで直江の城として存続しました。
 

(2008年03月01日 初掲)





















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