武田信玄生誕の城。
要害山城
所在地
別名
山梨県甲府市上積翠寺町
:積翠寺城
築城者
築城年
:武田信虎
:永正16年(1519)


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■躑躅ヶ崎館の詰の城

 永正17年(1520年)、甲斐守護武田信虎は、獅子身中の虫であった大井信達を屈服させ、甲斐一国の統一を成し遂げました。このとき信虎は、信達の娘を正室に向かえ、大井氏と同盟関係を結びました。この大井夫人が後年、晴信、信繁、信廉の三兄弟を生むことになる女性です。
 名実ともに甲斐の支配者としての立場を確立しつつあった信虎はまた、居館を石和から現在の甲府へと移しています。石和は、甲斐国全体から見るとやや東寄りに位置しており、一国支配の拠点とするにはやや不便な場所でした。こうして永正16年(1519)に完成したのが、戦国甲斐武田氏の居館としてその名を知られる躑躅ヶ崎館です。しかし、躑躅ヶ崎館はあくまでも平時の居館に過ぎませんでした。残された史料によればどうやら堀を巡らせてはいたようですし、あるいは土塁ぐらいは備えていたのかもしれませんが、とても大規模な戦闘に耐えるような城砦ではありません。そこで、いざというときのため居館後方の積翠寺の山中に築かれた詰の城が要害山城でした。

■武田信玄生誕の地

 甲斐統一から間もない大永元年(1521年)になると、駿河今川氏の一万八千とも伝えられる大軍が甲斐に向けて進軍してきました。これに対し信虎が集められた兵は総数で二千ほどだったと言われています。数の上では絶望的なまでの戦力差が存在していたため、信虎も相当の覚悟で戦場に赴いていたらしく、身重だった大井夫人を要害山城へと避難させています。緒戦に敗れた後、躑躅ヶ崎館まで攻め込まれるという事態も想定していたのでしょう。そうしておいて、飯田川原で今川軍と対陣しました。
 戦闘開始から半月程が経過した11月3日、武田の陣中にある知らせが届けられます。要害山城の大井夫人が、武田の跡取りとなる男児を無事出産したという一報でした。この報に勢いづいた武田軍は、11月26日の決戦で敵の大将であった福島正成を討ち取り、今川軍の撃退に成功しました。この時に生まれた男児が後の武田信玄で、現在の要害山城本丸には「武田信玄公誕生之地」の石碑が建てられています。
 その後の信虎治世中と、そして要害山城に生を受けた信玄の存命中には甲斐が敵兵により侵されることはありませんでした。つまり要害山城が実戦の舞台となることもありませんでした。

■その後の要害山城

 天正10年(1582)になると武田氏最期の時がやってきます。天下をほぼ手中に収めた織田信長と、その同盟者徳川家康が武田領信濃や駿河にそれぞれ侵攻を開始したのでした。信玄の後を継いだ勝頼はこれに先立って新府城を築かせていましたが、結局はできかけの城を放棄し、甲斐東部の岩殿山城へ落ち延びていく途中で小山田氏の裏切りに遭いました。勝頼とその子・信勝は、天目山を目指す途中の田野にて自害し、ここに戦国大名武田氏は滅亡しました。
 このような歴史の流れの中で、武田氏本来の詰城であった要害山城は顧みられることがありませんでした。実際に要害山城を訪ねてみると、ここ以外に拠点を求めた勝頼の心情も少しはわかるような気がします。現在要害山城跡には堀切や土塁、枡形虎口、曲輪などの遺構が良好に残されているものの、全国の名だたる山城に比べると小規模な城だという印象は否めません。おそらく、信虎による築城時に仮想敵として想定していたのが敵対国人領主といった小規模の相手で、数万の規模を誇る織田徳川の軍勢を相手に家名の存続をかけた決戦に臨むような状況までは考えていなかったのでしょう。
 とは言え、要害山城が甲斐を統治する上での重要拠点の一つだったことも違いはないようで、武田氏滅亡以後の甲斐の統治者たちも、躑躅ヶ崎館を政庁に、要害山城を戦時拠点に設定して領国経営を行いました。城跡の一部には石垣も見られますが、石垣は武田氏純正の城にはあまり見られない遺構であることを踏まえると、後の支配者たちが要害山城に手を入れた可能性も考えられます。
 躑躅ヶ崎館は、甲府城が築かれた段階で甲斐の政治拠点としての役割を終えましたが、要害山城も同時期に廃されたと考えられています。

(2008年04月18日 初掲)





















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