二つの淀城。
淀城
所在地
別名
京都府京都市伏見区淀本町
:なし
築城者
築城年
:徳川秀忠
:元和5年(1619)


お城スコープ > お城総覧 > 淀城

■駅の隣にある城

 現在の淀城址は公園として整備され、近鉄京阪本線の淀駅に隣接する形で残されています。駅のホーム側からだとお堀と石垣がはっきりと見えるのですが、いざ淀駅で電車を降り、改札を出て左手に向かうと、明らかに城の縄張りに食い込む形で自転車置き場が設置されていて、まず何よりもおびただしい数の自転車が目に付き、その奥にある石垣が霞んでしまっています。お城らしい景観を求めるならば、駅からお堀越しに石垣を眺めた方が良いでしょう。
 近くの街並はいかにも下町然としていて、その意味でも石垣のある城跡は周辺の風景から浮き上がってしまっています。むしろ京都市内にありながら無秩序な開発によって城跡が完全に失われなかった事を幸いだったとするべきなのかもしれません。
 城の縄張り跡に当るであろう公園や稲葉神社あたりは近所の中学生の溜まり場になっているフシがあり、ちょうどコンビニ入口付近にたむろする若者を思わせて、妙に居た堪れなくなる雰囲気があります。
 

■伏見城を廃して造られた新淀城

 淀城は、徳川秀忠が元和9年(1619)に秀吉の隠居城だった伏見城を廃城にした際に建造されたお城です。工事責任者は松平定綱で、寛永2年(1625)に竣工しました。淀城の建設には伏見城の部材の一部が使用されたといわれていますが、そもそもその伏見城には、古淀城(後述)の部材が流用されており、豊臣政権時代末から江戸時代にかけて、京都の南では城を造っては壊し、壊しては造るを繰り返していたわけです。
 今ではだいぶ趣も変わってしまっていますが、当時は「淀」の地名そのままに、桂川、宇治川、木津川の三川が近くで合流する水運の要衝だったようです。秀忠・家光時代の淀城は、将軍が上洛した際の寝所として使われていましたが、後には何度か城主が代わり、享保8年(1723)以降は、春日局の子孫である稲葉氏十万二千石の居城となりました。
 

■淀殿と古淀城

 春日局の類縁者というのもなかなかですが、この城に関係したもっとも有名な歴史上の人物といえば、その名もズバリの淀殿でしょう。というより、そもそも淀城は、秀吉が天正16年(1588)に懐妊した愛妾・茶々姫のため、それ以前から存在していた管領細川氏の淀城を改修して産所としたものでした。茶々姫はここで鶴松(夭折)を出産し、そのことから「淀殿」と呼ばれるようになったのです。鶴松は成人する事もなく死亡しましたが、このことで「淀殿」の名とともに豊臣氏中における彼女の存在がクローズアップされる事になりました。周知の通り彼女は後に秀頼も産んでおり、そのために秀吉が亡くなり北政所おねが退去した後の豊臣氏で実権を握るようになっていったのです。
 その淀殿ゆかりの古淀城は、現在の淀城址からさらに北へ500m程行った所にある、納所(のうそ)の妙教寺という場所の付近にあったと考えられています。右はその、納所交差点付近を撮影した写真ですが、城の痕跡らしきものは何一つとして残されていません。
 

(2008年03月01日 初掲)















戻る
TOP