水郷に名残を残す城。
柳川城
所在地
別名
福岡県柳川市本城町
:舞鶴城
築城者
築城年
:蒲池治久
:文亀年間(1501〜1504)


お城スコープ > お城総覧 > 柳川城

■龍造寺隆信の雌伏

 柳川城は、もともと蒲池氏により築かれた物だと言われています。戦国末期、と言うより安土桃山時代の筑肥地方で龍造寺隆信が勢力を伸ばしたことは別項でも触れていますが、そんな隆信も若年の頃は領国を追われて辛酸を舐める思いを味わっています。臥薪嘗胆の隆信は、地理的に肥前に近かったこともあって、この城に身を寄せていた時期もあると伝えられます。
 柳川築城当時の蒲池氏は、すでに大友氏の麾下に組み入れられていましたが、当時の龍造寺氏は、豊後から筑後にまたがる地域を領有する太守・大友氏にとって一介の地方領主程度の存在に過ぎず、脅威と言うほどの存在ではなかったため、庇護して自勢力の影響下に置こうと言う思惑があったのかもしれません。

■立花氏の居城へ

 しかし、龍造寺氏が急速に台頭し、大友氏と比肩し得る勢力となると、柳川城はその来攻を受けることになります。平城ながら、多くの掘割によってよろわれた柳川城は、堅固な守りを誇ったと伝えられ、後に柳川城が龍造寺方に奪われると、今度は旧主・大友氏を持ってしても抜くことのできない難攻不落の城となりました。要するに、水郷柳川に現在も残る掘割の原型が作られたのが、柳川城の城下町成立と時期を同じくしており、利水目的の物であると同時に、当初は軍事上も有効に機能していたと言うことになります。
 古豪大友氏と、新興の龍造寺氏、そして島津氏による鼎立構図が出来上がった戦国末の九州において、大友氏は島津氏との決戦に敗れ、広大な自領を維持することができなくなっていきますが、その間隙をついて勢力を伸ばした龍造寺氏も、島津氏との戦いで事実上の統率者であった隆信を討ち取られる大敗北を喫します。そして島津氏による九州統一がなるかに思われたまさにその時、秀吉の軍勢が到来し、九州各地には新たな秩序が敷かれることになりました。近世柳川城は、紆余曲折を経ながら大友氏の重臣から独立大名へと転身を果たしていた立花氏の居城となります。以後は、柳川藩十万石の政庁として、藩政期を通じて立花氏の城であり続けました。

■今は昔の城跡

 かつて城を守った掘割は、現在も柳川市の観光資源として活用されているものの、そうした中、柳川城跡は、柳城中学校校庭の片隅にひっそりと天守台を残すだけの城跡となっています。今は失われた天守は五重五階を誇ったと言うことです。十万石の大名の城にしては大規模ですが、立花氏が関ヶ原の戦い後に柳川城を失っていた一時期に城主だった田中氏が三十余万石の大名であったため、その際に建てられたと見るべきものでしょう。
 この天守閣は明治時代に入ってから原因不明の出火で焼失しており、壮麗を誇った柳川城も、今は昔の感があります。

(2014年07月15日 初掲)















戻る
TOP