大和宰相・豊臣秀長の百万石の居城。
大和郡山城
所在地
別名
奈良県大和郡山市城内町
:犬伏城
築城者
築城年
:筒井順慶
:天正8年(1580)


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■筒井順慶による郡山城

 郡山城はもともと、14世紀末頃に郡山衆と呼ばれたこの地の土豪・小田切氏によって築かれた居館が始まりだったようです。
 お城としての体裁を整えたのはそれから1世紀近くもが経過した天正8年(1580)年の事です。築城者は筒井順慶でした。長らく大和の覇権をかけて松永久秀と争っていた順慶は、一次は織田信長のとりなしによって久秀と和解していたものの、天正5年に久秀が信長に対して反旗を翻したのを機に織田氏の力を借りて久秀を攻め滅ぼし、大和一国を支配下に置いたのでした。
 順慶は、郡山城を大和支配の拠点とするに相応しい城にするために近隣の大工を総動員するほどの勢いで築城を進めましたが、その最中に本能寺の変が勃発。不名誉な形で順慶の名を天下に知らしめた洞ヶ峠の日和見を経て、天正12年に36歳で没しました。
 

■秀吉最大の功臣

 順慶に実子はなく、養子として定次を迎えてはいましたが、その頃になるとすでに天下の実権を握っていた豊臣秀吉によって、定次は伊賀上野へと転封されました。天正13年、郡山城には豊臣秀吉の弟にしてその最大の功臣、大和大納言こと小一郎秀長が入りました。
 秀長は普通、秀吉の異父弟であるとされます。秀吉の実父に当る弥右衛門の死後、後の大政所・なかは、織田信秀の同朋衆(武将に仕え、主に文化面を司った僧形の者)だった竹阿弥と再婚し、竹阿弥との間に男の子を設けました。これが小竹(後の秀長)だとされることが多いのです。
 実弟か異父弟かはさておき、秀長は兄のために粉骨砕身の仕事ぶりを見せました。秀吉の家臣というと、蜂須賀小六正勝や「二兵衛」の竹中半兵衛と黒田官兵衛、「賊ヶ岳七本槍」の加藤清正や福島正則、茶坊主・石田三成など、華々しい活躍や有名なエピソードと共に語られる人物が多く、ともすれば秀長のことは霞んでしまいがちですが、「内々の儀は宗易(千利休)、公儀のことは宰相(秀長)」の言葉に集約されているように、豊臣政権内部における秀長の役割は非常に重要なものでした。そのことを誰よりもよく知っていた秀吉は、秀長を大和・紀伊・和泉百万石の太守に封じたのでした。
 

■百万石の城

 関白秀吉の片腕となる人物の居城となるに相応しく、郡山城は筒井氏時代をさらに超える規模で生まれ変わりを進めていきます。その広さは25万平方キロメートルにおよんだと考えられ、紀州の根来寺から山門を城門として移築したのを始め、付近の寺院から石地蔵や庭石をを接収して石垣に利用するなど、その工事が非常に大掛かり、かつ急ピッチだったものがうかがわれます。天正19年に秀長が没した後も養子・秀保によって天守の造営が続けられましたが、文禄4年(1595)に秀保が変死し、大和豊臣氏は断絶しました。その後のこの城に秀長に比肩するほどの大大名が入ることはなく、柳沢家の時に明治を迎えました。
 とは言え、もとをただせば大和宰相のものだった時期もある城だけあって、本来であればかなり豪壮な城となっていたであろうことがうかがわれます。なお、前出の石地蔵は現在も天主台近くの石垣に残されていますが、野面積みの石垣は現在では崩落が始まっているらしく、石に触れられるほどの距離にまで近寄る事は出来ず、また、天主台の上にまで上がることは出来ません。
 現在の城跡に建っている追手門、向隅櫓、多門櫓は昭和55年に再建されたものです。

(2008年03月01日 初掲)















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