箱根を守る小田原北条氏の牙城。
山中城
所在地
別名
静岡県三島市山中新田
:なし
築城者
築城年
:北条氏康?
:永禄年間(1558〜1570)


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■箱根十城の要

 小田原北条氏の三代当主・氏康は、本拠地小田原城の西側を防備する目的で、永禄年間(1559〜69)に「箱根十城」と呼ばれる城砦を整備しました。天下の険として知られる箱根の峠の西側斜面、駿河国側の標高600メートル地点に存在する山中城は、このときに十城の要となるべく築かれたといわれていますが、その築城年代については明確には分かっていません。ただ、箱根山中を走る旧東海道を取り込む形で成立したことからも、西から進入してくる外敵に対して備えたお城だった事がよく分かります。その関係もあって、現在の城跡は旧東海道に沿って敷設された国道1号線によって南北に分断される形になっています。
 北条氏の本拠地である小田原城は、上杉謙信や武田信玄といった難敵に何度か攻められた経験を持っていましたが、謙信にしろ信玄にしろ関東平野の方を回って小田原に肉薄したため、これらの名将と北条氏との戦いにおいて山中城がそれほど重要な役割を果たす事はありませんでした。むしろこのお城の存在がもっともクローズアップされる事になったのは、北条氏が信玄よりも謙信よりもはるかに強大な敵である豊臣秀吉との対決を余儀なくされた時期の話です。時は天正の末年でした。氏康の跡目を襲った氏政・氏直親子は、東海道を東進してくるであろう秀吉以下の軍勢に備えるため、山中城に大改修を加えました。
 

■天下人の軍勢の猛攻にさらされて

 豊臣方の攻撃に備えて山中城に立てこもったのは、松田康長、北条氏勝、間宮康俊・信冬親子、朝倉景済、多米長守らの諸将で、城兵は三千ないし四千余だったと言われています。対する豊臣方の陣容は、総大将・羽柴秀次以下に二万、徳川家康率いる兵が三万、堀秀政率いる兵が二万で、計七万の兵が山中城を取り巻く事になりました。俗に「攻者三倍」などと言われ、こと城攻めに関しては攻城側には篭城側の何倍もの兵力が要求されると言われていますが、秀吉による小田原征伐時の山中城は、実に自軍の17倍にも及ぶ数の敵兵と戦わなければなりませんでした。
 戦闘の口火を切ったのは総大将である秀次の軍で、中村一氏、堀尾吉晴、山内一豊、一柳直末といった武将が山中城に対して猛攻を仕掛けました。城兵は地の利を得て善戦するも、やはり17倍の数を相手にしては衆寡敵せず、城は半日ほどで落ちたと伝えられています。
 三の丸跡にはこの戦いで討ち死にした将兵の菩提を弔う宗閑寺が建立され、境内には城主・松田康長や北条方の副将・間宮康俊、そして豊臣方の一柳直末らの墓があります。
 

■北条流築城術の粋

 現在の山中城址は後期山城の特徴を良く表す史跡公園として整備されています。曲輪やそれを囲う土塁、さらに各曲輪は空堀や一部水堀によって仕切られ、曲輪間は土橋によって結ばれています。堀の部分には北条流築城の特徴である畝堀やその発展型である障子堀が見られます。所々には木橋も復元されています。木橋はいざ合戦の際にはこれを破壊して曲輪間の連絡を絶つこともできたため、城の防衛上は都合の良いものでした。写真が再現された木橋で写真奥が二の丸虎口です。分かりにくいですが桝形も造られています。
 山中城址はかなりの範囲にわたって広がっていますが、石垣というものが存在しません。城跡には付き物の石垣ですが、あれはあれで建造のためにそれなりの技術力が要求されるため、小田原北条氏の築城においてはそれほど積極的に採用されなかったということでしょうか。山中城が関東ロームというやや厄介な地盤の上に存在している関係もあるのかもしれません。
 前述の通り城跡は国道1号線によって分断されていますが、1号線(東海道)を隔てて箱根側にあるのが元来のお城の縄張りで、三島側にあるのが豊臣軍の進行に備えて新たに築かれた岱崎(たいざき)出丸と呼ばれる区画です。本丸などからはさほどでもありませんが、岱崎出丸側からは駿河湾や田方平野、そして天気が良ければ富士山の景色が良く見えます。小田原役の時、物見の兵は湾を埋め尽くさんばかりの軍船や自城に向かって雲霞のごとく押し寄せてくる敵兵の姿を見て慄然としたかもしれません。それほどに眺めの良い場所です。
 

(2008年03月01日 初掲)









































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