「最上百万石」の城。
山形城
所在地
別名
山形県山形市霞城町
:霞ヶ城
築城者
築城年
:斯波兼頼
:正平11年(南)/文和5年(北)/延文元年(北)(1356)


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■最上氏の浮沈と堯将の登場まで

 山形城の歴史は南北朝時代に始まると言われ、斯波兼頼が出羽按察使(あぜち)としてこの地にやってきた時、館を築いたのが起こりと考えられています。兼頼とその子孫達は、ここを拠点に出羽を支配し、最上氏と名乗るようになりました。最上氏は江戸時代の初めに改易処分を受けるまで、山形城を居城とし続けました。山形城は文字通り、最上氏累代の居城だったのです。
 最上一族では、後年に伊達政宗としのぎを削り、実高百万石とも言われる所領を得た最上義光が有名なために、「最上氏は東北の有力大名」と言うイメージを持ちがちなのですが、実際にはこの地で勢力を保ち続けるのはなかなか難しい事だったらしく、一時は置賜地方の伊達氏に従属するまでになっていた事もあったようです。その後は義光の父・義守の時に伊達のくびきから逃れ、最上氏は再び伊達氏と対等に争い得る関係となりました。
 後に義光の妹である義姫が伊達輝宗に嫁して両家の関係修復が図られるものの、二つの家の確執は深かったようで、争いの火種は後々までくすぶり続けました。もっともこの義姫、かつての大河ドラマでは岩下志麻が演じていたように(?)、「奥羽の鬼姫」とあだ名されるほど気性の激しい女性だったようで、彼女の存在ゆえに最上と伊達の間に一種独特の不調和が生まれたような気がしないでもありません。
 

■最上百万石

 姻戚同士ながら時に戦場で見える事もあった最上・伊達の両氏。しかし義光の政治感覚には優れたものがあったようで、豊臣秀吉による小田原攻めに際しては、ライバル関係にある政宗に先んじて小田原にはせ参じており、義守の死去と言う不測の事態の発生により遅参には違いなかったのですが、秀吉から二十四万石の本領の安堵されています。政宗が秀吉の前にひざを屈するのをぎりぎりまで引き伸ばしたこと、さらに東北諸大名の中には秀吉に対して反抗的な者がしばしばいたことも考えれば、地方にいながら中央の動きにもよく目を配っていた義光の眼光の鋭さは注目に値するものなのではないか思います。
 義光の優れた政治力は後々にも発揮されました。豊臣の世が徳川の世へと移り変わろうとして行く時期には、時代の勝者を良く見極め、関ヶ原の戦いに際しては東軍側として参戦、会津の上杉景勝とよく戦った事を評価されて家康から表高五十七万石、実高では百万石とも言われる所領を与えられています(長谷堂城参照)。義光の場合、戦場での駆け引きもさることながら、こうした時流を確かに見通す眼力によって栄達をつかんだように思えます。そしてこの時期、山形城は「最上百万石」とも言われる大身の藩の城たるに相応しく、大改修を加えられました。
 なお山形城の異名・霞ヶ城は、出羽に攻め寄せてきた上杉の家老・直江兼続が山上から山形城を望もうとしても、城に霞がかかりその様子をうかがい知る事ができなかったという言伝えから付けられたものだと言われています。
 

■その後の山形城

 しかし義光が勝ち得た最上百万石も、長くは続きませんでした。彼の子達の代になると、最上家中は家督相続をめぐる争いでまとまりを欠くようになり、ついにはお家騒動を理由に改易の憂き目を見る結果になりました。かつての最上氏と並ぶ東北の雄・仙台伊達藩と境を接している立地からでしょう、最上氏以後の山形城には、鳥居氏や保科氏をはじめとして、多くの親藩や譜代大名が入れられました。しかしそれらの多くはかつての最上氏ほど大身の大名ではなかったため、百万石を謳われた巨城を支える経済的な余裕を欠き、山形城は次第に衰微していきます。城の斜陽化に引きずられ…というわけではないでしょうが、目まぐるしく入れ替わっていく山形城の主たちもどんどん小身となって行き、幕末の水野氏に至ってはわずかに五万石を領するばかりと言う有様でした。
 現在の山形城跡は霞城公園となっています。城跡からはもともと規模の大きな城であった事を伺えますが、城郭遺構として残されているのは石垣と堀ばかりで、それ以外は城跡と言う特性を無視した公共施設ばかり設置されているのは少々寂しいところ。城門や橋などが復元されていますが、この調子で史跡公園としての整備がさらに推し進められる事を願います。
 

(2008年03月01日 初掲)





















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