石見銀山を支配する城。
山吹城
所在地
別名
島根県大田市大森町
:なし
築城者
築城年
:大内義隆
:天文2年(1533)


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■銀山の金庫番

 石見銀山の開鉱時期には不明な点が残されているものの、採掘が本格的に始まったのは16世紀前半のことだったと言われています。折りしも、近隣領主が富国強兵に血道を上げていた戦国時代。軍資金の財源として有用だった全国各地の金山・銀山が熾烈な争奪戦にさらされていたのと同じように、石見銀山も係争の焦点となります。
 石見銀山は、周防の戦国大名大内氏によって開発が進められました。しかし石見国は常に出雲尼子氏の脅威に晒されており、石見銀山が遠からず尼子氏の攻撃を受けるであろうことは容易に想像できました。そこで享禄2年(1529)に築かれたのが矢滝城でしたが、この城は城兵が大内本国のコントロールを離れて暴走をはじめ、挙句の果てには在地の領主小笠原氏に奪取されてしまうと言う結末を迎えています。大内氏が矢滝城を奪回し、これに代わる新たな銀山防衛の拠点として標高414mの要害山に山吹城を築いたのは、こうした状況の中のことだと言われています。

■繰り広げられる攻防

 銀山周辺に山吹城以外にも数々の城が築かれた経緯を見ると、山吹城単独で銀山を守ろうとしたというよりは、多くの支城ネットワークを結ぶハブの役割を狙ってこの城が築かれたのかもしれません。山吹城周辺にはこのお城以外にも多くの城跡が残されていますが、山吹城はそれらの中でも中心的な位置を占めています。
 いずれにせよ、山吹築城によって大内氏が首尾よく石見銀山の支配権を確立できたかと言えばそうも行かず、築城後30年ほどの間は、大内氏と尼子氏、その間隙を縫った小笠原氏、そして新たに台頭してきた毛利氏の間で泥仕合のような銀山争奪戦が繰り広げられます。最終的には銀山ともども毛利氏の支配が確定しましたが、天正12年(1585)には銀山が豊臣秀吉の支配するところとなります。さらに関が原の戦いを経て毛利氏が石見の支配権を失うと、銀山は江戸幕府の天領となります。城はそれぞれの支配者により幾度かの改修を経ながら使われてきましたが、大森代官所が築かれた頃に廃城となったと考えられています。

■城と世界遺産登録

 2007年、石見銀山は世界遺産に登録されました。それに伴い銀山を訪れる観光客は急増しましたが、銀山を巡る史跡の一画である山吹城を目指す客は、あまり多くは無いようです。大森代官所跡から現在唯一一般公開されている坑道・龍源寺間歩へと通じる道を脇にそれると山吹城への登城口へとたどり着くものの、道行く人のほとんどは足早に間歩を目指します。反面で世界遺産登録によって銀山周辺に交通規制が敷かれるようになったことを思えば、登録は山吹城の訪問客にとっては喜ばしいばかりのものではないのかもしれません。
 城跡には石垣、竪堀などが残されているものの、盛夏に訪問したのが災いし、ぼうぼうと伸びた雑草に地形が覆い隠され小規模な遺構の確認は困難な状況でした。そういった意味ではやや手入れが行き届いていない感はあります。
 山頂付近は大きく削平され、また高低差のあるいくつかの曲輪が集中した状態になっており、主郭部はかなりの規模を誇っていたようです。主郭部付近は幾多の大名の支配を経てきた経緯から、各大名の築城思想が折衷したものとなっていると考えられます。また、本丸付近は銀山を取り巻く各城・各地区への展望が利き、城としての防御能力に限らず、銀山支配全般を意識した縄張りだったことも伺えます。3枚目写真左手のこんもりとしたピーク上に矢滝城が、右端付近に矢筈城がありました。

(2008年08月22日 初掲)





















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