戦国丹波の係争地。波多野氏の山城。
八上城
所在地
別名
兵庫県篠山市八上上
:高城
築城者
築城年
:波多野元清
:永正5年(1508)


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■波多野氏、丹波に根付く

 その秀麗な山容から、「丹波富士」の通称をもって呼ばれる標高459mの高城山上に築かれた八上城は、戦国時代の丹波で勢力を伸ばした国人領主・波多野氏の居城でした。丹波波多野氏初代に当たる清秀は、応仁の乱で立てた戦功により、管領細川政元から多紀郡(現在の篠山市)を与えられました。その根拠地となる八上城の築城は16世紀初頭のことだったと考えられています。
 以後五代続いた波多野氏は、丹波国内に勢力を確立する過程で管領細川氏に反旗を翻しこれと対立。黒井城の赤井氏など他の国人領主と結ぶことで、三好長慶、松永久秀と言った時の実力者らとも戦いました。その過程において、八上城を一度は久秀に奪われているものの、数年を経て奪還に成功しており、こと多紀郡における波多野氏の支配体制はまず磐石のものであるかに思われました。
 そして、幕府に代わって織田信長が権力の座に就いても、中央の支配者との対決姿勢は崩さず、ついに織田軍による攻撃目標とされるに至ります。この時信長の命を受けて波多野氏攻略の任に就いたのが、他ならぬ明智光秀でした。

■落城伝説

 しかし、織田家中においても屈指の智将として知られた光秀を持ってしても、八上城を落とすのは容易ではありませんでした。光秀による八上城攻略の結末については、諸説入り乱れているというのが実情です。古くから言われているのは、成果の上がらない攻城戦に一計を案じた光秀が、時の波多野家当主であった秀治・秀尚兄弟の助命を条件に開城の和議を結んだものの、信長がこれを光秀の独断専行であると叱責し、秀治らを処刑してしまった、というものです。場合によっては和議を餌に城を明け渡させ、邪魔な秀治らを排除する謀略であったとされることもありますが、この報復として波多野の人質となっていた光秀の生母が磔にされたとも言われ、これが本能寺の変の遠因であるともされます。先述の通り、近年の研究によればこうした通説がすべて事実であったとは考えにくくなっていますが、ドラマなどでは肉親を見殺しにされた恨みから本能寺の変が勃発した、とされるパターンが多いようにも思われます。現代人の感覚にも訴えやすいからなのでしょう。
 経緯はどうあれ、当地を攻略した光秀の領国に組み込まれた八上城も、山崎の戦いで光秀が討たれると前田玄以の治めるところとなり、篠山城が築かれた段階でその役割を終えました。

■全山城郭遺構

 八上城は、平成17年(2005)と比較的近年になって国の史跡に指定されていますが、どうやら戦国山城の特徴をよくとどめている点が評価されたということのようです。円錐状の山の至るところに、八上城時代の遺構が残されています。高城山が独立峰に近い形状の山であるとは言え、全部見て回るのは相当の時間がかかると考えた方が良いでしょう。少なくとも、いくつかある登山道の一つを上り下りしただけでは、主だった遺構のすべてを見ることはできません。私は春日神社口から登り、右衛門丸、三の丸、二の丸と主郭部を経て本丸に至る通称「右衛門コース」を選びましたが、いずれの曲輪も土木工事の規模はさほど大きくはなく、遺構としてはやや地味な印象が否めませんでした。連郭式の城であるのが実感できるのは良いでしょうか。
 登ったのと同じルートを引き返さなければならない事情があったため、結局前出の曲輪群しか見学できていませんが、聞くところによれば八上城では堀切に見所があるようです。もっとも、堀切優先のコースを取ると光秀の母が磔にされたという伝説の残るハリツケ松跡からは遠ざかってしまうなど、網羅的に見学するには山歩きの覚悟を決めて山中を彷徨するのが正解なのかもしれません。あるいは自分の見たいものをあらかじめ取捨選択しておくべきか?

(2008年09月09日 初掲)





















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