仏法の城。
山科本願寺
所在地
別名
京都府京都市山科区西野阿芸沢町
:なし
築城者
築城年
:本願寺蓮如
:文明15年(1483)


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■本願寺の興隆

 織田信長による天下統一事業の前に、大きな障壁として立ちはだかったのが本願寺と一向門徒です。彼らは信長とばかり敵対したのではなく、室町時代および戦国期、各地の大名とたびたび武力衝突を起こしています。日本国内において(あるいは国内に限ったことではないのかもしれませんが)、寺院が兵力を蓄え、時々の為政者と対立することは平安の昔からありましたが、いわゆる僧兵のように出家者だけが武器を取って戦ったのではなく、一般民衆を糾合することで大兵力を動員したことに一向宗の特色があると言えるでしょう。もっとも、そういう一向宗こと浄土真宗にも苦難の時代はありました。
 真宗中興の祖・蓮如は、応永22年(1455)に本願寺第七世・存如の子として生まれました。当時の本願寺は以前のような勢いを失い、不振にあえいでいましたが、蓮如が青年期から壮年期にかけての時期は本願寺が文字通り「どん底」の状態にある期間でした。特に痛手だったのは、比叡山延暦寺から加えられたとされる迫害で、ついには宗祖親鸞を祀る大谷本願寺までもが破却される事態となりました。畿内における基盤が危ういものとなった蓮如は越前国吉崎に移り、そこで吉崎御坊を開きます。吉崎で次第に力を付けていった本願寺教団は、隣国加賀の守護富樫氏の後継者問題に介入するまでになりますが、後には両者の関係がこじれ、有名な加賀一向一揆が発生すると富樫氏は一揆によって倒されます。

■城の如き寺

 こうした騒乱を厭うたのか、文明7年(1475)になると蓮如は再び畿内に戻りました。そして8年後の文明15年には、京都山科の地に山科本願寺が建立されました。常に騒乱と共にあった宗門に相応しくと言うべきか、山科本願寺は、寺とは言うものの土塁と堀を備え、坊官の屋敷が武家屋敷さながらに立ち並び、その内側には寺内町が存在すると言う、後世の城に見られる総構えと同様の構造を持っていたと伝わっています。しかし天文元年(1532)、城の如き備えを持った寺も、法華一揆と比叡山僧徒、細川晴元、六角定頼らの攻撃を受けて焼亡しました。山科本願寺を失った本願寺教団の拠点は石山御坊へと移り、石山は山科を上回って、後年信長をさんざん苦しめる事になる巨大要塞化の道を歩んでいく事になります。
 さて、法華一揆に滅ぼされた山科本願寺ですが、城砦の類としての規模も決して小さなものではなかったようです。現在京都市山科区の一部、山科中央公園などには、かつて山科本願寺の守りを固めていた堀の跡や土塁が残されていますが、なまじの城跡に残された土塁よりもはるかに高く築かれたそれは、寺とは言え山科本願寺がまさに城さながらの構えと防御能力を誇る建造物だった事を雄弁に物語っています。しかし近年では、宅地開発が進んで往時の様子を伝える遺構も失われつつあるようです。
 なお現在の山科には、かつての山科本願寺とのゆかりから本願寺山科別院が建立されています。

(2008年04月03日 初掲)















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