宇和島伊達藩十万石の城。
宇和島城
所在地
別名
愛媛県宇和島市丸之内1丁目
:鶴島城、丸串城、板島城など
築城者
築城年
:橘遠保
:天慶4年(941)


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■独眼龍の血脈

 仙台藩の藩祖である伊達氏第十七代・独眼龍伊達政宗には妾腹の長子がいました。その名を秀宗と言います。正室の子ではなかったため仙台藩の藩主となることはできませんでしたが、長幼の順で言えば政宗の子供たちの中でも筆頭に位置していたため、伊達家中における秀宗の立場は難しいものだったのでしょう。政宗も、長子の存在が自身の亡き後に家督争いの火種となることを懸念したのか、いつしか秀宗に分家を立てさせることを考えるようになりました。そしてそのチャンスは、大坂役の後に到来します。政宗は大坂役の論功行賞で与えられた伊予宇和島の新たな所領を秀宗に相続させ、秀宗がその藩主となれるよう幕府に働きかけました。
 秀宗が宇和島十万石の大名となったのは、慶長19年(1614)のことでした。

■藤原純友の乱に始まる歴史

 宇和島城の歴史は、藤原純友の乱の頃までさかのぼると言われています。「定本日本城郭事典」(秋田書店刊)によれば、現在の和霊神社が板島城、宇和島城のところが丸串城と呼ばれたとあり、丘陵の頂と裾にそれぞれ独立性を保った二つの城が築かれていたようにも見えます。南北朝時代以降は西園寺氏の居城する期間が長かったのですが、豊臣秀吉の四国征伐において降伏。伊予は小早川隆景の所領となり、宇和島城には隆景の城代として持田右京が入るも、隆景が筑前へと転封となると、今度は大洲城主戸田勝隆の支城となりました。
 紆余曲折を経ながら文禄4年(1595)に戸田氏の後を受ける形で宇和郡を治めることとなったのが、築城の名手として知られる藤堂高虎でした。城は高虎時代に旧態依然としていた面目を一新し、現在に通じる宇和島城の名をもって呼ばれるようになりました。高虎自身は今治城主へと進んだものの、その後しばらくの間、宇和島城は藤堂領の一支城に位置づけられます。それにしても安土桃山末期から江戸初期にかけてはこの地の領主は一定しなかったようで、後年高虎が伊勢に転封になると宇和島城には代わって富田信高が入りますが、信高は程なく改易となり、再び高虎預かりの時代を経て秀宗の入城を迎えたのでした。

■二代宗利による改修

 宇和島伊達藩の船出から間もない元和6年(1620)には、世に言う和霊騒動が勃発します。宇和島藩の有力家臣同士の政争が暗殺事件にまでつながったお家騒動で、犠牲者による崇り話をも生み出しながら、宇和島藩そのものの存続をも危うくするという大事件でした。城の一角に現在も残る和霊神社は、事件で命を落とした犠牲者の怨霊を祭るために建立されたものです。結果的にはどうにかお家取り潰しの危機は免れ、藩は二代宗利の治世を迎えます。
 宗利の時代になると高虎時代の城は老朽化が進んでおり、寛文2年(1662)から11年をかけ、宇和島城は大々的な改修工事を施されることになりました。改修された城は五角形の変則的な縄張りを持ち、また現在見られる天守閣はこの時に築かれたもので、高虎時代の望楼型を層塔型に改めたものだと伝わっています。小ぶりながらも同時代の城の特徴をよく残し、意匠も整っていることから少なからぬ愛好者が存在するとのこと。建物内部も公開されており、特筆するほどの展示物はないものの、歴史ある建物から南国情緒の漂う箱庭のような宇和島の街を見下ろしていると、しみじみ旅情を感じることができます。

(2008年05月08日 初掲)















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