小西行長が築いた南肥後の城。
宇土城
所在地
別名
熊本県宇土市古城町
:鶴ノ城
築城者
築城年
:小西行長
:天正16年(1588)


お城スコープ > お城総覧 > 宇土城

■小西行長の横顔

 豊臣秀吉の子飼いから大名になった武将は多いですが、本来僚友であるはずの彼らの間でも、武功派と吏僚派の折り合いが悪かったことはつとに知られています。上司であり君主であり親代わりでもあった秀吉がそのことを知らなかったとも思えないのですが、肥前国を、仲の悪い加藤清正と小西行長で分け合わせたのは奇妙な国割りだったような気もします。
 佐々成政の故地を二等分すると、当時の清正・行長のキャリアに見合った知行になると言うのがあったのかもしれませんが、隣り合った国同士というのは往々にして反目しあうことになります。実際、二人は領土境界線を巡って度々争ったと伝えられています。あるいは二人の不仲は、この国割りに端を発したものかもしれません。堺の薬商人の息子だった行長は、その出自に反して戦功を重んじる武勇の人であったとも言われており、その点では石田三成よりも清正らに近しいと言える武将でした。

■近世南肥の拠点

 行長は、成政の致命傷となった肥後国人一揆の平定に功があって、戦後に肥後の南半国を与えられました。北半分を領したのは、言うまでも無く清正です。このときに築かれたのが今で言う宇土城で、新城の建った場所は、もとは国人領主であった宇土氏の築いた古城があった土地だったと考えられています。
 関ヶ原の戦いのとき、清正は東軍に、行長は西軍に属し、特に行長は関ヶ原で決戦に参加していますが、時を同じくして清正は宇土城を攻めました。守備兵はこれに抵抗しましたが、行長の死が明らかになると開城しました。
 戦後清正は肥後一国の領有権とともに宇土城に手を入れるも、10年余りで廃城となり、それからさらに20年を経ると加藤氏は改易となりました。その後は、これまた肥後の殿様として知られる細川氏が熊本城に入り、宇土城址には熊本藩支藩の陣屋が築かれました

■二つの宇土城

 現在見られる遺構は西岡台と城山公園に二分されています。西岡台側が中世宇土城(古城)と呼ばれ、城山公園が行長の築いた新城の跡です。
 行長の像が建つ城山公園の小高い丘は、あまり城跡らしさをとどめておらず、それを巻くちょっと見では気づかないほどの石垣を目にして初めてここが城であったことを意識する程度の状態となっています。この一見目立たない石垣が、よくよく探してみると実はかなりの規模であることが分かります。
 対する西岡台の方は、これまたちょっと見には普通の高台にしか見えませんが、頂上部の広場に建物跡や木柵の復元などが行われており、戦国の城らしい雰囲気は作られています。ここがかつての曲輪だったところのようです。
 ちなみに熊本城の宇土櫓は、長らく宇土城の天守を移築したものだと言われてきましたが、平成に入ってからの修築工事のときに移築の痕跡が認められなかったため、現在では移築説は否定されています。

(2010年06月07日 初掲)















戻る
TOP