国崩しが火を吹いた篭城戦。
臼杵城
所在地
別名
大分県臼杵市臼杵
:丹生島城
築城者
築城年
:大友宗麟
:永禄5年(1562)


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■臼杵湾上の海城

 臼杵城は、永禄5年(1562)に大友宗麟によって築かれた城です。別名ともなっている臼杵湾の丹生島に築かれた、海城でした。この記事を書くために調べた範囲では、いわゆる「海賊城」としての運用は意識されていなかったようで、海を外界への接点として捉えていたというよりは、背後を守る天然の障壁と考えていたのかもしれません。当然、大手口は陸地側に向けられ、言うなれば海を堀とするのも同然の構えでした。
 大友氏は従来、府内(現在の大分市)に館を築いてそこを本拠地としていました。永禄から元亀、そして天正へと至る時期の大友氏は、北から毛利氏の侵攻を受け、南には成長目覚しい島津氏の存在があり、二方面作戦を展開せざるを得ない状況を迎えつつありました。宗麟が府内よりも南に位置する臼杵に城を築いたのは、日向にまで勢力を伸ばしていた島津氏との対決を見越してのことだったのでしょう。
 大友氏にとってはよもやの大敗となった耳川の戦い直前の時期において、宗麟は臼杵城を隠居城としつつ、なお家中の実権を握っており、一方後継者であるところの義統は、どちらかと言えば対毛利氏戦略において存在感を示していたようでもあります。

■背水の陣

 耳川における敗北後、大友氏は全く精彩を欠くようになります。天正14年には島津軍による豊後国内への大規模な侵攻が始まり、宗麟の籠もる臼杵城までもがその攻撃に晒されることとなりました。これに先立ち宗麟は豊臣秀吉に援軍を要請していましたが、同時期の戸次川の戦いで大友軍は、秀吉により遣わされた四国軍ともども島津軍に敗れ、府内までも奪われる事態を迎えていました。宗麟の臼杵籠城はまさに背水の陣だったわけですが、この時大友軍は南蛮渡りの大砲「国崩し」を持ち出して、島津軍を撃退することに成功しています。「国崩し」の正体はフランキ砲、平たく言えば大きな鉄砲で、今日的な大砲のように榴弾を撃ち出すものではなく、巨大な金属の塊を飛ばす兵器です。従って一度の砲撃で多人数を倒せるようなものではありませんでしたが、特筆すべきは射程距離の長さで、火縄銃も含めて当時の島津軍が持ち得たあらゆる武器よりも長い射程から一方的に攻撃することは出来たようです。
 その後、豊臣の本隊が九州に到着したことにより大友氏の命運は保たれましたが、後年義統が文禄の役で失態を演じ、改易処分を受けました。以後、臼杵城の主は福原直高、太田一吉と変わり、関ヶ原の戦いの後に稲葉氏が入城、以後は江戸時代を通じて稲葉氏の居城として、その役割を全うしています。
 なお、大友氏は改易後も高家として存続しています。

■臼杵公園として

 21世紀を迎えた今日、臼杵の海岸線は宗麟の頃よりも前進しており、丹生島はすでに島ではなくなってしまいました。現在見られる臼杵城址は、海城ではなく単なる平山城となっていますが、それでも周辺の低地に屹立するような佇まいは健在で、往時は海上に聳える要塞のように見えたことでしょう。城跡はどちらかと言えば殺風景ですが、現在でもそれなりに眺めの良い公園となっています。
 かつての丹生島の広さは東西485m・南北170mでこの部分が主郭部に相当しますが、ここに31の櫓があったという記録も残っているようです。多数を誇った櫓の一部、畳櫓などは現存しています。
 さて、臼杵城址にはくだんの国崩しのレプリカが展示されていると言う話でしたが、2009年春の訪問時にはそれらしいものが見当たりませんでした。ちょうど城跡のある臼杵公園が整備工事中だったようで、時期が来れば整備の済んだ城跡に国崩しが戻ってくるのかもしれません。

(2009年06月11日 初掲)





















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