浅井・朝倉・延暦寺と戦った織田の城。
宇佐山城
所在地
別名
滋賀県大津市南滋賀町
:志賀の城
築城者
築城年
:織田信長
:永禄13年/元亀元年(1570)


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■京への道

 私は京都以西に住んだことがないので、京都に行くと言うことは、私にとってとりもなおさず東側から京都に入るということを意味しますが、そのルートとして現実的なところは、鉄道なら東海道新幹線か東海道線、車なら名神自動車道か国道1号ということになります。いずれも大津市から京都市山科区に入るルートです。そのため、この宇佐山城が、かつて京へと侵入しようとする敵に対する防衛拠点の役割を果たしたと言うのは、あまり実感のわかないところでした。
 もっとも、築城の背景を考えれば、宇佐山城は浅井氏・朝倉氏への備えとして築かれたものとして良いでしょう。琵琶湖西岸を走る、現在で言う国道161号やJR湖西線を、見下ろす宇佐山城は、必要十分の機能を持っていたと言ったところでしょうか。

■京を脅かす敵

 宇佐山城は、織田信長によって築かれた城です。築城時期としては、浅井氏との同盟が決裂した頃にあたります。前述の通り、特に琵琶湖西岸から京へと入る交通を扼する地点に位置する城で、戦略上はきわめて重要な意味を持つ城でした。直接築城の任に当たったのは森可成で、可成はそのまま城将になりました。
 しかし、要衝の地に築かれた城だけあって、ひとたび畿内に動乱があれば、京の後背を狙う敵からの激しい攻勢にさらされる運命にありました。後年、織田政権の体制が磐石となった時期ならばともかく、石山本願寺や浅井・朝倉の両氏が信長の敵となった元亀年間には、宇佐山城は浅井・朝倉の連合軍に脅かされています。元亀元年に行われた戦いで、可成は討ち死にしました。戦いの中、一時的にでも城が落ちたのか、落ちなかったのか、はっきりしないところはありますが、織田軍本体が主目標を本願寺から浅井・朝倉軍に切り替えたこともあって、宇佐山城が浅井氏・朝倉氏の恒久的な足場とならなかったことは確かなようです。対する浅井・朝倉軍は、織田の主力との対決に引きずり込まれたことで、かえって損害を拡大させました。
 それ以後の宇佐山城がどのような運命をたどったかについては、詳らかではありません。比叡山延暦寺が信長との対決姿勢を鮮明にし、ついに焼き討ちされるまでの期間においては、対延暦寺の拠点となっていたようですが、宿老級にまで進んでいた明智光秀が、宇佐山城ほど近くの琵琶湖岸に坂本城を築いたことで、相対的にその重要性が薄れ、役割を終えたのではないかと推定されています。

■放送施設傍らの石垣

 宇佐山城があったのは、現在で言う近江神宮の裏山です。城の主郭部分に相当する山頂付近にNHKのアンテナ施設が建造されていると言う話は前もって知っており、遺構の保存状態にはあまり期待しないままの攻城登山となりました。ちなみに、宇佐八幡宮の境内裏手から延びる登山道が若干分かりにくかったため、初回の訪城では攻略を断念しており、二度目の登城で攻略を果たすことになりました。
 登りはじめからおよそ30分。決して楽とは言えない山道を黙々と登り続けた山頂は、確かに前もって掴んでいた情報に違わず、やたら近代的な施設が幅を利かせていました。もっとも、往時で言う腰曲輪に相当するであろう辺りには、石垣がほぼそのまま残されており、削平の跡も見受けられました。ただ何であれ、城跡としては、細々と永らえている感は否めません。
 城郭遺構とは別に印象に残るのは、山の西側の展望で、決して視界が広いわけではありませんが、西麓方向に、建物が建ち並んでいるのが見えます。もちろん、京都の中心市街の建物ではありませんが、こんな具合に、人の生活の場が京都東山の方まで続いているのでしょう。前述、現在東から京都に入る道の多くが、トンネルによって山科東部の丘陵を抜いていることを思えば、隧道の開削技術などあろう筈もなかった古くからの道が、宇佐山城北側の鞍部を越えていたのは、理の必然なのかもしれません。

(2012年11月17日 初掲)





















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