長宗我部氏の栄達と転落を見た城。
浦戸城
所在地
別名
高知県高知市浦戸
:なし
築城者
築城年
:長宗我部元親
:天正19年(1591)


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■土佐、そして四国の覇者

 土佐国、すなはち現在の高知県の戦国史については詳しいことを知りません。もともと国人領主クラスの小名たちが割拠していたところに長宗我部国親・元親の親子が現れ、ついには土佐統一が成し遂げられた、という程度の認識です。戦国乱世に一大勢力を成した武将には「親子鷹」が多く、ある時に出来人が現れ、その跡目を襲った後継者も先代に劣らぬ名将で、先代が固めた地盤を足がかりにさらなる雄飛を遂げていく…というパターンが多いような気がします。一代にして数カ国にも及ぶような巨大版図を築き上げた戦国大名となると、今すぐに思い浮かぶのは毛利元就や竜造寺隆信、伊達政宗あたり。他は織田信長にせよ、武田信玄にせよ、小田原北条氏、越後上杉氏、薩摩島津氏などにしても団子状態の国盗りレースの中から何代かかけて頭角を現していったパターンでした。乱世の勝者となるのは、それほどの時間と労力を要する事業だったということなのでしょう。
 土佐を掌握した長宗我部元親も後者に含まれる大名の一人で、父の代からの艱難辛苦の末に土佐一国の統一を果たし、ついには四国の統一までをも成し遂げ、「土佐の出来人」などと呼ばれるまでになった名将です。元親の初陣は二十歳と遅く、長くくすぶり続けていた為に「姫若子」(「軟弱者」ぐらいの意)などと軽んじられていたほどでしたから、大変な出世と言えます。ちなみにあだ名つながりで言えば、あだ名好きの天下人・織田信長は元親のことを「無鳥島の蝙蝠」などと呼んでいます。四国を僻地と見つつも、仮にも四カ国を制した元親は食えない人物であると踏んでいたわけです。
 蛇足めいた話が長引きましたが、土佐の長宗我部元親と言えば(一般的にはやや地味ながら)戦国史を語る上でのキーパーソンの一人です。そして、その地味な四国の小覇王・長宗我部の一族が、地元土佐ではどのような評価を受けているのかは、長らく私の関心事の一つでもありました。と言うのも、外からうかがう限りでは「土佐は山内の国」というイメージが完成してしまっているように思えたからです。
 

■滅び行く者の悲しみ

 浦戸城はもともと長宗我部氏による土佐統一戦の途上に立ちはだかった本山氏の砦でしたが、天正19年(1591)に長宗我部氏の居城として面目を新たにしました。それまで岡豊(おこう)城を居城としていた元親は、戦国の終わりとともに大高坂山(現在の高知城がある辺り)に新城を築こうとしたのですが、水害の多さゆえ実用に耐えうる物には作り上げられなかったようで、浦戸に城を築くよう方針転換をしたのでした。
 さて、長宗我部一族が苦難の末に統一した土佐の地に、後からやって来た領主が山内一豊でした。運命の巡り会わせとは皮肉なもので、元親の跡を継いだ盛親は関ヶ原の戦いで失敗して土佐の所領を失い、対照的に一豊は関ヶ原においてうまく立ち回ったおかげで遠州掛川六万石の領主から土佐一国二十四万石の領主となったのでした。土佐にやって来た一豊は、元親が放棄した大高坂山に城(後の高知城)を築くと共に、治水を行い城下町の基礎を築きました。
 長宗我部氏と山内氏の運命はまさに陰と陽ほどの対極にありました。それぞれの居城であった浦戸城と大高坂山城にしても同様で、新領主の赴任に伴い、旧領主の浦戸城は時代の流れから忘れられた存在になるはずでした。ところが、「一両具足」と呼ばれた長宗我部遺臣団は、旧主の復帰を要求して浦戸城にたてこもり、新領主である山内との武力衝突に及んでいます。「浦戸一揆」と呼ばれる紛争です。同じように些細なボタンのかけ違いから関ヶ原で西軍に属することになった島津氏が比較的寛大な処遇で済まされていることを思えば、一両具足たちの反乱も無理からぬものではありました。
 やがて盛親は、大坂役で滅び行く豊臣氏と運命を共にし、時を経て一両具足達も山内氏による土佐支配体制の中に組み込まれていくことになりますが、彼らは山内氏譜代の臣「上士」の下位に位置づけられる「郷士」の地位に甘んじることになります。そして浦戸の城は、一揆の鎮圧後には再度一揆の拠点となることを恐れられ、破却されました。
 

■悲劇の城

 事ほど左様に、行きがかり上仕方のないことだったとは言え、山内は土佐の土地っ子である一両具足=郷士に対して苛烈な圧迫政策で臨むことになりました。私が地元での長宗我部氏評と、さらにはそれとは表裏をなすであろう山内氏評に興味を持ったのは、土佐生え抜きと「外様」という両者が辿ったあまりにも対照的な運命の故でした。
 浦戸城は歴史の影に消えていった長宗我部氏を悲しいほどに象徴するお城です。思えば長宗我部一族の運命を狂わすきっかけとなったのは、豊臣政権下で島津征伐に参加した元親嫡男・信親の討ち死でした。これにひどく落胆した元親は、「七人みさき」の怪談を残す家督問題など、次第に狂気じみた行動が目立つようになったと伝えられています。元親が浦戸に移ったのは信親亡き後のことで、この新城築城もすでにして長宗我部一族の行く手に待ち構える暗い運命に絡めとられていたものなのかもしれません。
 浦戸城址は、月の名所・桂浜に立つ坂本竜馬像の上方の高台にあります。現在はそこが城址であることを伝える石碑と石垣の一部が残されているだけで、目立った遺構はありません。浦戸一揆の死者を慰める六地蔵(中段写真)と、長宗我部元親初陣にゆかりの八幡宮に立つ元親像も合わせて訪れ、歴史の明暗に思いを馳せてみるのも良いでしょう。
 

(2008年03月01日 初掲)





















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