徳川家の遺恨重なる、真田氏の小さな名城。
上田城
所在地
別名
長野県上田市二の丸
:尼ヶ淵城
築城者
築城年
:真田昌幸
:天正11年(1583)


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■名城の所以

 武田氏が滅亡し、織田信長も本能寺に倒れた激動の天正10年(1582)の翌年、後に秀吉をして「表裏比興の者」と言わしめた謀将・真田昌幸が築いた城です。
 上田城はもともと、土豪・小泉氏の砦があった場所で、主家である武田氏が滅亡し、小さいながらも大名として独立した真田氏が、遠からず訪れるであろう侵略者との戦いを想定し、新たな拠点として建設したものでした。
 もともと壮大な城郭建築が存在していたわけではなく、現在の上田城址公園もこじんまりとしています。どちらかと言えば地味な城ですが、上田城は実践においてその真価を発揮しています。一度目は真田氏が独立を果たして間もない頃。武田氏の旧領を奪取し、真田氏領をも併呑しようとした徳川の尖兵を撃退しています。二度目は関ヶ原前夜。中山道を西進してきた徳川秀忠の軍勢三万を釘付けにし、ついにこれを天下分け目の決戦に遅参せしめました。上田城は確かに見た目の派手さはありませんが、圧倒的戦力を誇る敵勢を前にして挙げた二度の華々しい戦果こそが、この城の名城たる所以と言えます。
 ちなみに現在の上田城址には3つの櫓が残されていますが、このうちの二つは幕末・維新の頃に六両で払い下げられ、後に別の場所へ移築、遊郭の建物(金州楼・万豊楼)として使用されていた事があります。しかし最初はものめずらしさが評判を呼んだものの、閉鎖的で暗い城郭建築は遊郭には向いていなかったらしく、有志によって買い戻されて現在の場所に再移築されたのだそうです。
 

■勝頼と昌幸

 時は上田城の建設が開始される一年ほど前、天正十年。武田勝頼は、祖父・信虎、父・信玄から三代に渡って武田氏の居館であった躑躅ヶ崎館を後にし、新たに要害堅固の地に築かせた新府城(韮崎市)に移りました。しかし、突貫工事で建設されたこの城は、土壁もまだ乾ききっていない状態であり、いよいよ甲斐侵攻を開始しようとしている織田の大軍を相手に太刀打ちできるような状態ではありませんでした。結局勝頼は、新たに築かせたこの城をも捨て、別の拠点を求めざるを得なくなりました。この時、勝頼の落ち着き先候補に上がったのが、当時真田昌幸が治めていた上野岩櫃城と、武田氏の一門衆であり父の代からの重臣である小山田信茂の居城・甲斐岩殿城でした。勝頼は、最終的には一門の重鎮である信茂の言を受け入れ、岩殿城に入城しようとしましたが、最悪のタイミングで信茂が造反し、行く先を失ったまま天目山中に逃れました。しかし、そこにも織田の軍勢が迫り、もはや逃げ切れぬとなると一族の人たちと共に自害して果てました。ここに新羅三郎信光以来500余年続いた名門、甲斐源氏武田氏は滅亡しました。
 この時、勝頼は小山田氏ではなく真田氏を頼みにしていたら、あるいは武田氏の再起もあったかもしれません。神算鬼謀の将・昌幸と後に彼の築いた上田城が、二度までも強大な敵を退けた事を思えば、そう考えずにはいられません。
 

■真田といえば…

 真田幸村こと信繁は、数多い戦国武将の中でも人気トップクラスの人物でしょう。渋好みのする武将というよりは、講談の時代からヒーロー的な扱いを受けてきました。その流れを踏襲してか、最近のテレビゲームには若々しい青年武将として登場していますが、彼の目立った実績といえば大坂冬の陣・夏の陣くらいのもので、これは彼が既に老境に差し掛かった時期の話ですから、かなり遅咲きの武将ということになるでしょう。
 それはさておき、これだけ人気のある人物ですからやはり上田市民からは愛されているようですし、上田市も観光に利用しないはずはありません。私が訪問した時には実物を見る事ができませんでしたが、上田駅前には真田幸村の像が立っています。
 しかし、真田氏に関する資料・収蔵品の多くは海津城(松代城)の方に回ってしまった感があります。距離的にはさほど離れていませんから、真田ファンなら、上田城と海津城の両方、できればこれに戸石城あたりを加えて回ってみることをお奨めします。
 

(2008年03月01日 初掲)





















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