秀吉に苦杯を舐めさせた小城。
防己尾城
所在地
別名
鳥取県鳥取市金沢
:亀山城
築城者
築城年
:吉岡定勝
:天正7年(1579)


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■敗北の味

 秀吉の城攻めの中でも、毛利方の鳥取城を攻めた戦いは、特に名高いものの一つです。この壮絶とも言える兵糧攻めを成功させるため、秀吉は徹頭徹尾、鳥取城を孤立させる戦略を用いています。因幡の国内にあった毛利方の城を次々と落としていきましたが、ほんの小城ながら、城攻め巧者で知られる秀吉の大軍を相手に、頑強な抵抗を為し得たのが、湖山池に臨む防己尾城でした。
 城を巡る一連の戦いの中で、一度などは秀吉の馬印である千成瓢箪も打ち捨てなければならなかったほどの敗北を喫したこともあり、後世このエピソードが、小さいながらも屈強の城であった防己尾城の名声を高めることになりました。力攻めで落とせる城でないことを悟った秀吉は、この城も兵糧攻めで落としています。

■短命の城

 因幡の国人領主である吉岡定勝によって、防己尾城が築かれたのは、古い時期のことではありませんでした。秀吉による鳥取城攻めのわずかに2年前の天正7年(1579)に築かれたものに過ぎません。この築城も、中国地方への領土的野心をあらわにした織田氏への備えというよりは、先年に築かれた吉岡氏の居城が、天険ながらあまりに不便な山城であったために、これに代わるものとして必要が生じたものという意味合いが強かったようです。吉岡氏は元来、山名氏に仕えていましたが、毛利氏の尖兵として吉川元春が因幡国に進出してきた際に、主筋ともどもこれに臣従、必然的に織田氏とは敵対関係を形成することになったのでした。ただし、旧主山名豊国は鳥取城攻めに先立って秀吉に降伏しています。
 秀吉の因幡侵攻を経て、防己尾城が最終的にどのような顛末を辿ったのかは詳らかではありません。ただ、戦時においてこそ屈強の守りを誇ったものの、近世城郭における執政所としての機能を担うには狭隘に過ぎる恨みがあり、落城後ほど無く廃城の運命を迎えたものと推測されます。

■湖に突き出す平山城

 山紫水明の湖山池に突き出す小半島に築かれた防己尾城は、現在ではそのロケーションの良さから、湖山池公園として整備されています。近くの湖岸から眺めると、湖面に浮かぶ一塊の丘のように見えますが、実際には三つに分かれた独立丘を形成しており、往時はそれぞれに本丸、二の丸、三の丸が築かれる縄張りを持っていたということです。
 公園としての最大のセールスポイントはやはり、湖山池の眺めと言うことになるのかもしれませんが、園路の傍らに目を転じると、堀切や削平の跡を認められるあたりは、戦国城郭跡の面影を残しています。

(2012年03月04日 初掲)















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