高くそびえる三段石垣の城。
津山城
所在地
別名
岡山県津山市山下
:鶴山城
築城者
築城年
:森忠政
:永享13年/嘉吉元年(1441)


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■森蘭丸の弟

 天正10年(1582)6月2日。戦国の風雲児織田信長は、京都本能寺において明智光秀により倒されました。この事件で命を落とした織田家の首脳には、信長の嫡男である織田信忠や村井貞勝らがいますが、ともすると彼らよりも有名な犠牲者が森蘭丸です。津山城はその森蘭丸の弟である森忠政によって築かれた城です。蘭丸というとどうしても前髪断ちも済んでいない少年のイメージが強く、その弟ともなれば本当に年端も行かない幼子のように思えてしまいますが、本能寺で命を落とさなかった忠政は当然のように成長し、立身出世を遂げて津山藩十八万石の礎を築いたのでした。
 蘭丸の弟と言うだけで一国一城の主になったのに意外性を感じてしまうのは、子役上がりの俳優が結婚した時のようですが、本能寺当時12歳であった忠政はすでに信長に仕えるようになってはいたものの、仲間内での喧嘩という非常に子供らしい理由で罰を受けて出仕を差し止められており、蘭丸のみならず坊丸や一歳上の力丸ら兄たちが本能寺で奇禍に見舞われた中で難を逃れています。
 森家の男は、どういうわけか戦場で落命する事が多かったらしく、父可成と長兄可隆は早くに討ち死にしており、蘭丸以下三人の兄は本能寺で死亡、家督を継いだ次兄長可も小牧長久手の戦いで討ち死にしており、忠政は六男と言う遅い生まれながら森家の家督を相続しています。

■鶴山築城までの紆余曲折

 忠政は豊臣政権下では特に際立った働きもなく、言ってしまえば特に芽も出ないような状態で過ごしていましたが、苦労が多かったためかなかなかしたたかな人物に育ったらしく、秀吉の死後は次の天下人を的確に見極めて家康に接近、本領であった美濃金山七万石から信濃川中島十三万七千五百石に進み、関ヶ原の戦いを経て、小早川秀秋亡き後に彼が備前・美作に得た大封の一部だった津山十八万六千五百石に封じられました。慶長8年(1603)のことです。
 当初忠政は院庄に城を築こうとしていたものの、最終的には当時鶴山と呼ばれていた現在の城地に新城を築くよう方針転換しています。院庄の工事現場において、知っている人は知っている名古屋山三郎の刃傷事件が起こり、人死にが出た縁起の悪さが嫌われたのだとも、そもそも院庄築城は当座の間に合わせに過ぎないものだったのだとも言われていますが、ともあれ津山城の築城工事は入封の翌年から開始され、完成までには13年の長きを要しました。過去には山名氏の一族である山名忠政が城を築いていた事もあるというこの地に、同じ名前の忠政が新たな城を築く事になったのは何かの因縁なのでしょうか。

■三段石垣の城

 津山城の縄張りは細川氏の豊前小倉城を参考にしたものだと言われています。もともと内々に小倉城の様子を調査していたものの、それが細川家側の知るところになり、あわや大問題になるかと思われたのが、細川家側の厚意により多くの情報の提供を受けて完成にこぎつけたため、森家の細川家に対する感謝の念は絶えなかったようです。
 津山城は三段に分けて築かれた輪郭式を基本とする縄張りのお城で、旧時代の建物が失われた現在にあってもその石積みの見事さは見る者の印象に残ります。鶴山公園として整備された城址には沢山の桜の樹が植えられ、「日本さくらの会」なる集まりが選定した「日本のさくら名所100選」の一つにも数えられています。花の時期にはさぞ美しい光景が広がっている事でしょう。ちなみに最近では櫓も復元されて公園としての整備は着々と進んでおり、そのためか安価ながら入園料も設定されていますのでご注意ください。
 なお森氏は4代で無嗣断絶、以後は松平氏が明治維新まで城主を勤めています。

(2008年04月11日 初掲)





















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