山陰の小京都を見守る城。
津和野城
所在地
別名
島根県鹿足郡津和野町田二穂
:三本松城
築城者
築城年
:吉見頼行
:永仁3年(1295)


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■元寇に備えて

 山陰の小京都として全国にその名を知られる津和野の町は、津和野藩の城下町として江戸時代に発達したものですが、その政庁である津和野城は、町の歴史よりもずっと古くの鎌倉時代末に築かれたものだとされています。驚いたことに30年というまれに見る長い歳月を費やして築かれたこの城は、元寇に備え、西石見の守護であった吉見氏が二代をかけて創り上げた労作でした。城の異名「三本松城」は、この地に三本の松が生えていたことに由来するといわれていますが、その松も着工時には一本しかなかったものが、城が完成する頃に後から植えた二本の松が成木となり、ようやく三本松になったようです。
 日本国の存続を危うくした難敵・元軍との戦闘に備えて築かれた城というだけのことはあり、津和野城は中国地方でも屈指の要害に仕上がりました。古くは、現在の津和野の町とは反対側に大手道がつけられていたと言います。山間という立地にも助けられて、築城後二百年ほどの間、津和野一帯は吉見氏支配の下平和裏に治められていました。

■陶晴賢との対決

 しかし戦国もたけなわの天文の頃になると、津和野城をとりまく地域の状況は風雲急を告げます。もともとこの地域は、出雲・石見を基盤とする尼子氏と、周防・長門の大内氏という二大大名の支配圏が接する場所であり、二大勢力がいざ衝突することとなれば、すぐさま最前線になるという地理的条件を備えていました。
 天文20年(1551)、大内義隆が家臣の陶晴賢に討たれた大寧寺の変において、大内氏に連なる国人領主たちは晴賢に味方するか、それとも対抗するか、去就を明らかにする必要に迫られます。吉見氏の場合、大内氏が九代正頼の正室の実家だったことや、吉見氏と陶氏の折り合いが歴史的に悪かったことがあり、毛利元就と結んで反晴賢の急先鋒となります。当然のごとく、大内の大軍が津和野城へと殺到しましたが、正頼は堅城で鳴らした津和野城に篭り、また同時期の晴賢が毛利攻めと津和野攻めの二方面作戦を行っていたこともあって、大内軍を退けることに成功しました。天文23年(1554年)のことです。毛利元就が厳島において晴賢を滅ぼしたのはその翌年のことでした。以降の吉見氏は、中国地方の派遣掌握に向けて歩み始めた毛利氏に臣従することになります。

■坂崎出羽の入城

 その毛利氏は、関が原の戦いで西軍大将の座に祭り上げられたのが災いし、江戸時代の初めには領地を防長二ヶ国に削られてしまいます。家臣筋の吉見氏も津和野城を去らざるを得なくなり、後には坂崎直盛が入りました。城はこの直盛の時代に近世城郭へと改築されましたが、直盛は城の機密保持に関して非常に神経質な人物だったらしく、城が完成するや、工事に携わり城の秘密を知っている職人を殺害したと言われています。
 さてこの直盛は、世に言う千姫事件の坂崎出羽守としても知られています。大坂役に臨んでは、燃え落ちる大坂城から火傷を負いながら徳川家康の孫で豊臣秀頼の正室となっていた千姫を救出したにもかかわらず、火傷の痕を嫌った千姫によって結婚の約束を反故にされ、最後には千姫強奪を計画するなど半ば乱心、自害したと言われています。話半分の逸話ですが、直盛の死によって坂崎氏が断絶したのは間違いなく、坂崎氏に代わって入城した亀井氏のときに明治維新を迎えました。
 現在の津和野城址は、367メートルの山頂付近に石垣と曲輪跡を残しています。歩いて登ることも、リフトを利用することもできますが、いずれにしても登り口が分かりにくいので要注意。

(2008年08月03日 初掲)





















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