戦国武田氏三代の居館。
躑躅ヶ崎館
所在地
別名
山梨県甲府市古府中町
:なし
築城者
築城年
:武田信虎
:永正16年(1519)


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■戦国武田氏三代の居館

 躑躅ヶ崎館は、永正16年(1519)に武田氏18代当主である武田信虎によって築かれました。もともと武田氏の居館は石和にあったのですが、信虎によって甲斐国内の敵対勢力が平らげられ、甲府盆地全体からみればやや東寄りに位置したそれまでの場所から、ほぼ中央に相当する場所に移動したものです。
 「甲陽軍鑑」には、「城郭を構えず、堀一重の御館に御座候」と記されています。土塁や堀などは存在した事がわかっていますが、館という名が表すように戦時の拠点というよりは、むしろ甲斐の国主である武田氏の執政所というべき建物であったようです。有事の際には、躑躅ヶ崎館背後の山中にあった要害山城(甲府市積翠寺町)が拠点となっていたらしく、戦の最中に生まれたという武田晴信(後の信玄)の出生地も、要害山城だとされています。
 信虎時代から60年余りに渡り武田氏の居館であった躑躅ヶ崎館跡は、勝頼の代に放棄されています。その後、甲府城が建設された時に、完全に破却されました。
 

■「人は城、人は石垣、人は堀」

 「人は城、人は石垣、人は堀」とは、信玄の業績をまとめた「甲陽軍鑑」の一節です。実際に信玄がこのような言葉を口にしたかどうかは定かではありませんが、信玄は人こそが国の基であると考え、「甲陽軍鑑」の一節を地で行くような領国経営を行ないました。信玄在世中、甲斐国内に新たな城が一つとして築かれることがなかったのは有名な話です。甲斐は国土全体が山で囲まれ、それ自体が一つの巨大な城郭のような地勢をしていました。この地理的条件を十二分に活用し、信玄はその在世中に一度として甲斐に敵軍を侵入させることがありませんでした。
 しかし、勝頼の代になって躑躅ヶ崎館は放棄されました。そして、新たに建設されたのが新府城でしたが、これが結果的には命取りとなりました。この城は突貫工事で完成を急いだため、その無理は甲斐国民に高い税率・重い労役という形で降りかかりました。こうして勝頼は民心を失い、さらに重臣の多くが新府入城に反対したにも関わらずこれを断行した結果、家臣達との間にも決定的な不和を生じさせてしまいました。
 人心を掌握できなかった勝頼の末路は、哀れなものでした。躑躅ヶ崎館はまさに、「人は城」の象徴だったのかもしれません。
 

■信玄と甲府

 現在、躑躅ヶ崎館跡は武田神社になっています。武田神社は大正時代に、武田信玄の事績を称える意味合いを込めて建立されたものです。
 信玄が群雄の中でも傑出した名将であった事は江戸時代はじめ頃の人々にも知られていたようですが、徳川幕府の下で甲斐は天領とされていたこともあり、武田氏時代のことは、滅多なことでは口に出来なかったようです。躑躅ヶ崎館の破却がかなり徹底したものだったことも、甲府城が武田氏の居館とはまったく別の場所に築城されたことも、幕府が武田氏時代の匂いを残すのを嫌ったためだと言われています。そのような流れの中、信玄の記憶は甲府の人たちにとっても遠いものとなりかけました。武田神社の造営が大正時代のことだったのも、時代と共に信玄の事跡の記憶が薄れつつあったためだという話もあります。
 現在、JR甲府駅の南口には武田信玄像があります。様々な紆余曲折がありはしましたが、今では甲府の人にとって、信玄はゆるぎない地元の英雄となったのでしょう。
 なお、武田神社の程近くに三条夫人の墓と、信玄の墓と伝えられる塚があります。

(2008年03月01日 初掲)





















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