庄内地方の拠点となった城。
鶴岡城
所在地
別名
山形県鶴岡市馬場町
:大宝寺城
築城者
築城年
:大泉氏
:12世紀


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■大宝寺城から鶴岡城へ

 鶴岡城は、古名を大宝寺城と言いました。地名をその名に持つ大宝寺氏は、戦国時代の庄内地方に勢力を築いており、現在の山形県のうち村山地方を勢力基盤とした最上氏ほか、庄内地方に割拠する諸勢力に対し、越後の上杉氏を後ろ盾として対抗していました。しかし上杉謙信の死後、上杉家中はその跡目を巡ってのお家騒動に汲々とすることとなり、今度は織田信長に誼を通じるようになります。これにより大宝寺氏は、一時勢力基盤の安定を見ることには成功しましたが、つまるところ信長も本能寺に倒れたため、再度支配体制は動揺、ついに最上氏の前に屈することとなったのでした。
 なお、大宝寺城は戦国時代の比較的早い段階で大宝寺氏本城としての位置付けを失い、その役割はほど近くにあった尾浦城が担うことになります。それでも大宝寺城が持っていた庄内支配の拠点としての優位が失われたわけではないらしく、その機能は鶴岡城に受け継がれていくこととなります。後にこの地を得た最上氏も大宝寺城を改修し、この際に鶴岡城へと改称したものと伝えられています。なお、近世大名としての最上氏は短命に終わり、世にいう最上騒動を経て改易、後を受けた酒井氏が鶴岡城を本格的な近世城郭へと生まれ変わらせた後、明治維新まで居城とし続けました。

■質朴な東北の城

 そんな歴史を持つ鶴岡城ですが、縄張りや土木工事の技巧に注目すると、東北地方の決して少なくない城がそうであるように、西日本の城ほど物々しく防備を固めたものではないことに気づかされます。石垣がほとんど存在しない点が象徴的で、現存する防御機構と言うと土塁くらいしかありません。一応、水堀もあるにはありますが、深い堀という感じではなさそうです。城の周りに水場があり、それを土塁から見下ろすような形となっています。平面的で彫りの浅い城と言ったところでしょうか。
 石垣は断片的に残されていますが、実用性本位のものと言うより、ある種の権威づけのため、城の顔となる部分を狙って築かれた感じです。徳川氏やその家臣をはじめとする東国大名に高い石垣を組上げるだけの技術がなかったのだと言われることもありますが、個人的には、単純に東国は西国ほど良質の石材を入手しにくかっただけなのだろうと思います。徳川氏系の城であっても、西日本の城には石垣が存在し、規模の大きな城ともなれば、天下普請を諸大名に命じると言う手もあり、ノウハウの蓄積がなかったとは思えません。
 なお、現在では城の中枢部に庄内神社が鎮座しており、現在の城跡でもっともよく目につくのはこの神社であると言って良いでしょう。

(2019年10月10日 初掲)















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