木曽路の城。
妻籠城
所在地
別名
長野県木曽郡南木曽町吾妻
:なし
築城者
築城年
:木曽義昌
:天正10年(1582)


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■木曽路の城

 旧中山道の木曽路は現在ではハイキングコース化されていて、行楽シーズンの休日ともなるとここを歩くハイカーも珍しくないのだとか。特に人気が高いコースの一つが、木曽路の南端にあたる峠の宿場町・馬籠から、峠の向こうの宿場町・妻籠へのルートです。実際には交通手段の関係上、妻籠より少し先のJR南木曽駅まで歩く人も多いようですが、妻籠宿を少し外れたあたりの街道沿いに、妻籠城への入り口があります。
 現在ではうっそうとした林間の小山のようにしか見えませんが、妻籠城は文字通り中山道を押さえる城だったようで、城の遺構は旧中山道と思われるハイキングコースの両側に散らばっています。現在まで残る遺構は土塁、石塁、郭跡などですが、案内に従いながら堀切などの痕跡が残る林間の道を進むと、10分ほどで妻籠城の主郭部にたどり着きます。山間の高台に位置する本丸跡は、周囲を覆う木々が綺麗に取り払われ、南にある妻籠宿の家並みや、北にある中央アルプスなどの山並みを望む事ができます。
 

■豊臣対徳川の戦いに二度巻き込まれる

 木曽氏は16世紀中庸以降甲斐の武田氏に従っていましたが、妻籠城改築の年と伝わる天正10年に入って間もなく織田氏に寝返りました。勝ち馬の見極めに心を砕かねばならなかった辺境小土豪の苦しい決断が見え隠れする寝返りです。織田信長はこの寝返りを好機と見て木曽口、伊那口、そして徳川家康の遠江から雲霞のごとき大軍を武田領内へと攻め込ませ、3月武田氏は滅亡しました。木曽氏が強大な織田軍団の一部に組み込まれたと思われたその矢先の6月、今度は信長が本能寺の変で横死します。織田領となって日の浅い甲信の地は混乱の坩堝となります。義昌の妻籠城改築には、こうした天下の形勢が関係していたのかもしれません。
 混迷を深める信長亡き後の世で、次第に頭角を現してきたのが明智光秀を討った羽柴秀吉と、信長の同盟者であった徳川家康です。両者のいずれとも近い場所に勢力を張る木曽氏は、再び新しい主を選ばなければならなくなります。はじめは徳川方に付いた義昌も、ついには圧迫を強める秀吉に屈し、後に勃発した小牧長久手の戦いにおいては、妻籠城に山村良勝を置いて攻め寄せてきた徳川勢を退けています。妻籠城は交通の結束点にあるためか、後の関ヶ原の戦いに際しても戦場となりました。後、木曽氏は徳川方に帰参しますが、家康の関東移封に伴って下総へと移り、義昌の子・義利の代に素行不良が原因で改易となりました。
 妻籠城は、一国一城令が出された元和の頃に廃城されたと考えられています。
 

(2008年03月01日 初掲)















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