越中支配の要となった城。
富山城
所在地
別名
富山県富山市本丸
:安住城、浮城
築城者
築城年
:水越勝重
:天文12年(1543)


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■神保氏の迷走

 富山城はもともと、越中守護代神保氏に属する城だったと考えられています。越中守護は本来畠山氏でしたが、畠山氏は河内国にあって越中に入らなかったため、戦国の頃になると、神保氏と松倉城の椎名氏が越中を西と東に二分して支配するようになりました。
 その起源や築城年代にはまだ明らかでない部分も残されていますが、これまでのところ、天文12年(1543)に神保長職が、水越勝重に命じて築城したというのが定説となっているようです。ただし、神通川に鼬川という二本の川の洲の上に築かれたため、敵勢から守るには良かったものの、水害による数度の移築・改築が行われていた可能性も考えられており、詳細の確定を見るまで、今少しの研究が待たれます。
 神保氏の最盛期は天文年間でしたが、やがて越後に上杉謙信が立ち、加賀で一向一揆が猛威を振るうようになると、東西から圧迫を受け、次第にその勢力は衰退していきました。一時は上杉氏に従属したものの、加賀方面からは織田氏が、そして飛騨からは武田氏が、その影響力を越中国内に及ぼすようになっていきました。そして列強の草刈場と化した越中の国情を象徴するかのように、神保の家中も統一を欠いていきます。ついには有力家臣で親上杉の小島職鎮が家中の実権を握るようになり、一時は嫡流の長住が城を追われる事態にまで発展しました。天正6年(1578)に謙信がこの世を去ると、長住は上杉家中の後継者争いの混乱に乗じ、さらには織田信長の支援を受けたこともあって富山城を回復しますが、結局神保氏による越中支配は安定を見ることはなく、天正10年(1582)、上杉の支援を受けた職鎮によって、長住は再び富山城を奪われました。

■佐々成政入国から前田氏の統治へ

 織田氏はすぐさま反撃に転じ、富山城を奪い返しましたが、この一件により長住は失脚し、代わって佐々成政が富山城に入りました。この時期の成政が、越中支配の拠点として富山城の整備を進めたと考えられています。新たな拠点を得た成政は、国内から上杉氏勢力を一掃し、越中平定を成し遂げますが、それと前後するように本能寺の変が勃発。柴田勝家に味方した成政は、賤ヶ岳の戦いを経て苦境に立たされ、ついには秀吉の軍門に下り、越中を没収されました。代わって越中を領有するようになったのが加賀の前田氏で、富山城は加賀藩二代利長の隠居城として利用されることになりましたが、慶長14年(1609)の失火により主だった建物を焼失。結局利長の隠居所としては新たに高岡城が築かれ、荒廃した城跡には城代が立てられるのみとなりました。
 寛永16年(1639)。三代利常は次男利次に越中の一部を与え、分藩を立てる許可を幕府に求めています。こうして富山藩が成立しました。富山藩の台所事情は苦しかったらしく、当初こそ新たな城を築くことを考えていたものの、結局は半ば廃城となっていた富山城を再利用することになります。最終的に富山城が富山藩の政庁に確定したのは万治2年(1659)のこと。それまで富山城は加賀藩の一部であったために領地交換が行われ、五層の天守をはじめとする城内建築物と城下町が整備され、十万石の藩都として面目を施しました。こうして発足した富山藩と富山城は、前田氏の統治の下、明治維新まで続きました。

■憩いの公園と昭和築城の嚆矢

 富山市の中心部、富山県庁の南に城址公園はあり、かつてはこの場所に富山城が建っていました。公園では、石垣や満々と水をたたえる堀、そして昭和になって建造された模擬天守が印象的です。かつて佐々成政が天然の外堀にした二本の川は、明治時代に神通川の河道付け替えが行われたのを機に城から離れ、往時とはずいぶん様変わりしました。かつての神通川の名残は、現在松川の名で呼ばれ、これは城址公園の北を流れています。
 城址公園には図書館や美術館などの施設が存在していますが、城郭時代を偲ばせる遺構は多くありません。一部、嘉永2年(1849)に富山藩10代利保の隠居所の正門として築かれた千歳御門だけが、過ぎ去りし時代の記憶を今にとどめています。
 公園の一角に立つ天守閣を模した建物は、富山市郷土博物館です。内部はもちろん外観もかつての天守を復元したものではなく、その点から模擬天守の部類に入りますが、いわゆる昭和築城の中でも最初期の建築物として、平成16年(2004)に国の登録文化財に指定されました。内部は富山の歴史に関する展示の場になっています。

(2009年02月09日 初掲)





















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