渇え殺しの城とその後。
鳥取城
所在地
別名
鳥取県鳥取市東町2丁目
:久松城
築城者
築城年
:未詳
:天文14年(1545)


お城スコープ > お城総覧 > 鳥取城

■山名一族の相克

 鳥取城の歴史は天文14年(1545)に始まります。当時、因幡守護の座にあった山名誠通は、但馬守護であった同族山名祐豊と争っていました。現在の鳥取市周辺は、因幡国内でももっとも但馬に近く、その一角にある久松山(きゅうしょうざん)は要害の地であり、但馬山名氏をけん制するための出城を築くのには最適の地でした。今のところはこれが通説ですが、近年では但馬山名氏が因幡山名氏に対抗するために築いた城であるとする見方も強まってきています。
 ともあれ城の完成からわずかに3年後、誠通は祐豊による急襲を受け討ち死にの最期を遂げます。結果、二つの山名家は祐豊の下に統一され、因幡には祐豊の弟・豊定が入りました。
 しかし因幡国内の情勢はいまだ安定を見ず、今度は誠通の客将格であった武田高信が但馬への対決姿勢を露にします。鳥取城を奪い、安芸毛利氏の後ろ盾を得た高信はたびたび山名氏勢力との衝突を繰り返しますが、山名氏が出雲尼子氏と結ぶと、尼子側からの圧迫に追いつめられ、ついには豊定の息子・豊国に鳥取城を明け渡す事になります。やがてその豊国も、下り坂の尼子氏から離れ、新たな脅威となりつつあった毛利氏に付くことになりました。鳥取城をめぐる諸勢力の争いには活発なものがありましたが、ついには東から羽柴秀吉の軍勢が到来し、織田軍団による中国地方攻略が開始されるのです。
 

■渇え殺し

 こうした中で翌天正9年(1581)3月から開始されたのが第二次鳥取城攻めです。史上名高い「鳥取の渇え殺し」はまさにこの時の話でした。豊国はいち早く秀吉に下ったものの、鳥取城は間もなく毛利方に奪還されていました。
 当時城内には城兵を20日まかなうだけの兵糧しか蓄えられていませんでした。秀吉はそこへ追い討ちをかけるように、高値で因幡国内の米を買占めさせる一方、毛利本国から城への兵糧米輸送を遮断、さらに領民を城内へと追い込んで食料の消耗を早める計略を仕掛けました。城内はたちまち飢餓状態に陥り、まず手近にある草木の根を食し、それが無くなると今度は牛馬に犬猫虫の類を腹に入れ、それさえも食べられなくなるとついには人の死肉を食べるようになったと伝えられています。絵草子の餓鬼のようにやせ細った人々は、城の柵に取り付いて助けを求めましたが、すぐに城外からの射撃にさらされました。残された人たちは弾丸を受け倒れた人に取り付き、まだ息があるうちに肉をむしりとるような有様だったと言われています。
 孤立無援の城内で繰り広げられるまさしく地獄絵さながらの光景に、城将吉川経家はついに開城を決意しました。10月25日のことでした。経家は一軍の将として責任を取り、城下の真教寺で切腹して果てました。開放された城内の人々は織田軍による炊き出しを受けましたが、極度の飢餓状態から突然多くの飯を食べたため、反動で死んでしまった人も少なくないと伝えられています。
 

■近世城郭への変貌

 秀吉による攻略の後は宮部継潤が入城し、その後は関ヶ原の合戦の頃まで宮部氏による支配が続きましたが、宮部氏は関ヶ原で西軍に与したために改易。代わって池田長吉が城主に迎えられ、この時期に近世城郭鳥取城の概形が出来上がったとされています。戦国期の鳥取城は久松山城を中心とした縄張りを持つ山城でしたが、この池田氏の頃になって、山麓部にも規模の大きいいくつかの郭が築造されました。元和3年(1617)には姫路から池田光政が入り、この頃に鳥取城下の整備が進められたと伝わっています。明治を迎えたのは、この池田氏の治世の時でした。
 山頂付近の戦国以来の曲輪を本丸、時代が下ってから造られた山麓部の曲輪を二の丸として成立した鳥取城は、近世城郭の中でも特徴的な縄張りを持つ城と言えます。現在、山麓には堀や石垣などが残され、山頂部の本丸は特別に目立った遺構こそ無いものの、急峻な上り坂を経てたどり着く道のりに戦国期の面影が偲ばれます。本丸からの眺めは良く、日本海や鳥取市内随一の観光スポットである鳥取砂丘の様子などが良く見えます。
 また山麓には、秀吉による城攻めの時に城を守っていた吉川経家の像が立ち、戦いの記憶を今にとどめています。

(2008年03月01日 初掲)





















戻る
TOP