加賀一向一揆最期の城。
鳥越城
所在地
別名
石川県白山市三坂町
:別宮城
築城者
築城年
:鈴木出羽守
:天正年間(1573〜1592)


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■一向一揆の城

 守護富樫氏の打倒から100年以上も続き、時に隣国大名にとってさえ大きな脅威となっていた加賀一向一揆も、天下人織田信長の武威を前にして次第にその威勢をそがれていくことになります。一揆の敗北を象徴する出来事だったのが天正8年(1580)の御山御坊陥落でしたが、これをきっかけに一揆勢の全てが沈黙したわけではありませんでした。特に白山麓地方には一揆方の城がいくつか残り、一揆の残党が攻め寄せる織田軍に対してゲリラ的な戦いを続けていました。しかし頑強な抵抗をもってしても時代の趨勢は覆しがたく、諸城は一つ落ち、二つ落ちしていきました。そんな中、最後まで残ったのが鳥越城です。
 この城は白山麓地方の門徒集団・山内衆の配下にあったもので、もとは鈴木出羽守(重泰?)によって築かれたものであったと考えられています。御山陥落から間もないうちに柴田勝家の攻撃により落とされ、守将として吉原次郎兵衛が入れられたものの、なおも続いた山内衆の反撃により、翌年になると一度は一揆方に奪還されています。しかしこれも間もなく佐久間盛政によって平定されました。
 

■最後の砦

 鳥越城は手取川の流れによって作られた手取峡谷沿い、山間ながらもわずかに開けた平地部にある独立丘上に築かれていました。この谷には加賀北部と越前勝山を結ぶ街道が走り、なるほど、交通の要衝を押さえると言う築城のセオリーに従った選地ではあるのですが、地形の関係上から山そのものを包囲することはさほど難しくはなく、周囲から孤立させられやすい城であるとも言えます。一揆勢によって掌握されていた時代、鳥越城の防御は北西方面に力点を置いていたと考えられています。つまり、北の平野から手取川をさかのぼってくる軍勢に対してにらみを利かせるための城だったといえます。背後には白山。ここを最後の砦として戦った一揆勢のことを思うと、まず想起されるのが「孤立無援」という言葉です。
 背水の陣で戦った一揆勢も最後は織田軍を前にして完全に屈したのは前述の通りですが、彼らを待っていたのは悲惨な末路でした。信長は三百名余りの山内衆を磔にし、一揆の残党に対する威嚇を行っています。鳥越城の例に限らず信長の一向一揆に対する処断は過酷を極めましたが、両者の衝突が単純な現世利益の追求を超えた価値観の相克であったため、生半可な決着ではすまされなかったのでしょう。
 山頂へと向う道の途中、「一揆敗れて山河あり」と題されたレリーフがありました。過酷な運命を辿った山内衆の姿が、胸を打ちます。
 

■復元された城

 比高140mの城山山頂付近には、現在石垣や土塁、櫓などが復元されていて、戦国山城の雰囲気をよく伝える史跡として整備されています。知名度の点からだけではややマイナーな感のある鳥越城ですが、まずまず見所のある城の部類に入ると言って良いでしょう。山頂の本丸からは手取峡谷の様子を見渡す事ができ、城跡に格別興味がない向きであっても、そこそこ堪能できる城だと思われます。本丸直下までは車で乗り入れることも可能です。
 鳥越城の程近く、二曲(ふとうげ)城とのちょうど中間あたりに位置すると言う道の駅「一向一揆の里」には一向一揆歴史館が併設されており、ここで歴史の勉強をすることも出来るようです。残念なことに閉館時間がやや早めに設定されているようで、私が夕方に訪ねた際にはすでに入口が閉ざされていました。午後四時以前の訪問をお勧めします。
 一揆の悲しい歴史を今に伝える鳥越城ですが、地元ではその血生臭い背景が良く知られているために心霊スポットのうわさも絶えず、遅い時間ともなるとおかしな連中が入り込むこともあるようなので参考までに。
 

(2008年03月01日 初掲)





























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