在地領主伊東氏始まりの城。
都於郡城
所在地
別名
宮崎県西都市大字荒武
:浮船城
築城者
築城年
:伊東祐持
:興国7年(南)/正平元年(南)/貞和2年(北)(1346)


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■初期本城から本城の守りへ。

 最盛期の伊東氏は、日向国内に四十八城と言われる城郭ネットワークを構築しましたが、例に漏れず都於郡城もまた、それら四十八城のうちの一つでした。その位置付けは、単なる1/48であるにはとどまらず、ある時は伊東氏の本城として、またある時は支城網の要となる城として、戦国時代を通して伊東氏が擁する最重要拠点の一つだったと言って良いでしょう。
 都於郡城は、14世紀中葉に日向の地頭職であった伊東祐持によって築かれ、以後長らく伊東氏本城としての役割を果たすことになります。伊東氏は長らく庶流を代官として、本国から日向の所領の経営を行っていましたが、祐持の時になって在地支配に乗り出したのでした。
 戦火や失火により度々焼けた城であり、戦国末頃には相対的に佐土原城の地位が向上したため、伊東氏としての居所としての機能は失われますが、次第に激化する島津氏との戦いの中でも、本城を守るための防衛拠点として存続しました。伊東氏が島津氏により日向から駆逐されると、島津氏の属城となり、やがて元和の一国一条令の折に廃城となりました。

■丘陵をよろう城

 都於郡城跡は、比較的近年になって国の史跡に指定されており、西都市郊外の丘陵地帯には現在でも、空堀で仕切られた複数の曲輪跡が残っています。決して山深いところにあるわけではありませんが、高所に位置する本丸から周囲の台地を見渡してみると、多くの曲輪の存在することが分かり、往時のこの城の規模の大きさがうかがい知れます。石垣など石造物は見られませんが、特に圧巻となっているのが土塁で、並みの戦国山城・平山城で見られるものよりを二回りほどは上回る高さを誇るものもあります。
 廃城後、どの程度旧状を留めていたかは分かりませんが、整備の手が行き届いており、明瞭に復元されたその縄張りからは、いかにも南九州という感慨を呼び起こされます。
 なお、城跡には天正遣欧少年使節の一員であった伊東マンショの像が立っています。伊東氏の庶流であると同時に大友宗麟の遠縁であったマンショは、一説に都於郡城に生を受けたと言われています。マンショの旅立ちは伊東氏が事実上滅亡した後の天正10年(1582)のことでした。

(2012年09月30日 初掲)

















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