流浪の将軍を迎えた瀬戸内の城。
鞆城
所在地
別名
広島県福山市鞆町後地
:なし
築城者
築城年
:毛利元就
:天文年間(1532〜1555)


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■鞆の浦を見下ろして

 風光明媚の地として知られる備後鞆の浦は、古来風待ちの港として発展して来ました。安芸に興って近隣諸国を平らげた毛利氏は、やがて強力な水軍兵力を擁するに至りますが、それだけに鞆の港を押さえることは、毛利氏にとっては必須とも言える重要事項でした。こうして築かれたのが鞆城でしたが、毛利領内の一拠点と言うだけにとどまらず、時に重要人物を迎え入れることもありました。都を追われたかつての将軍と、宿敵尼子氏の復活を画策するその旧臣のなれの果てと。
 鞆城の跡は、現在福山市鞆の浦歴史民俗資料館となっています。城自体は平山城程度のものですが、込み入った鞆の路地にあっては、その高台も視認しにくく、ずば抜けて高所と言うわけでもありません。元来、主郭部として利用されていたと思われる丘陵の頂上部は、小規模とは言え博物館が建つほどの広さはありますが、肝心の遺構は、ほぼ何も残されていません。強いて言えば、資料館に向かう途中の山腹に、付近で発見された石垣が推定復元されている程度です。
 鞆城は、戦国時代でも比較的遅い時期に築かれたもののようで、古い時期には近くにあった大可島城が付近の制海権を握る上で重要な役割を果たしていたようです。一方の鞆城自体は、毛利氏の後に安芸国に封じられた福島正則も改修を加えていますが、正則の改易後は廃城となったようです。なお、鞆の浦歴史民俗資料館の館内展示は、城としての歴史とはほぼ無関係に、漁や北前船による交易、祭に関する内容を中心に、港町・鞆の浦の暮らし向きを伝えています。

■元足利将軍の逗留

 ところで、前述したように、鞆の浦は史跡の多い土地でもあります。それこそ古代から近現代に至るまで、この小さな港町に何がしかの史跡の類が残されているのは、驚くべきところなのかもしれません。ささやき橋の跡、太田家住宅、いろは丸展示館など、見るべきものは多々ありますが、戦国時代の周辺に的を絞ると、当地には山中鹿介幸盛の首塚が残されています。
 戦国時代、主家である尼子氏の再興を目指して苦闘を続けた彼も、ついには宿敵毛利氏に捕縛され、備中高梁で殺害されました。断たれた首が鞆に埋葬されているのは、この地に運ばれたのちに毛利輝元による首実検に供されたからのようです。今でこそ落ち着いた情緒の田舎町となっている鞆も、往時には毛利領国内の首邑の一つと言うに値する繁栄を誇っていたのかもしれません。
 そしてこの首実検の場に立ち会ったと言われるのが、織田信長によって追放され、毛利氏を頼っていた足利義昭です。義昭の鞆滞在にゆかりのある史跡は、現在見当たりませんが、義昭の居所となったのは、現在の寺町近傍だったような気はします。当時の鞆城は、貴人が暮らすほどに居住性が高かったとは思えません。
 鞆は、室町幕府の初代将軍である足利尊氏が、新田義貞追討の院宣を受けた地であり、その験を担ぎ、義昭はこの地に留まったのでしょうか。義昭の亡命状態を指して「鞆幕府」と呼ばれることもあるようです。もともと雌伏には縁のある人物ですが、後の歴史が物語るように、結局この志は虚しいものとなりました。鞆の浦で義昭が毛利氏の庇護を受けていた期間のうちに、信長は本能寺に倒れ、毛利氏が羽柴秀吉に臣下の礼を取ったのとほぼ時期を同じくして、義昭は京に帰り、やがて山城国槇島1万石の主と言う着地点を見出しました。

(2016年03月02日 初掲)















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