蜂須賀氏十六代の居城。
徳島城
所在地
別名
徳島県徳島市徳島町城内
:渭山城、渭津城
築城者
築城年
:蜂須賀家政
:天正13年(1585)


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■蜂須賀小六という武将について少し

 徳島城は、「小六」の通称で知られる蜂須賀正勝の子・家政によって築かれた城です。蜂須賀氏が阿波一国を治める拠点となった城ですが、蜂須賀氏が豊臣秀吉から阿波十八万石を与えられたのは、正勝存命中の四国征伐終了後のことです。単に在世中だったのではなく、正勝本人も武将として現役でした。にもかかわらず、正勝は阿波の領主の地位を辞退して秀吉の側近であり続けることを望み、結果として子の家政が阿波に所領を得ることになったと言われています。
 正勝の出自は野盗の頭目であったかの如くに言われることもありますが、これはもちろん誤伝です。本来は尾張北西部を勢力基盤とした国人領主で、れっきとした武士階級です。秀吉による墨俣築城のくだりにもあるように、木曽川流域の水運業を掌握していた川並衆を率いていたため、正統な武士ではないように誤解されたのかもしれません。
 下級武士あるいは貧農の子として生まれ、持たざる者の身で信長に仕えるようになった若かりし日の秀吉は、やはりさほど身分も高くない正勝と協力し、出世のつるを掴むことになります。中村出奔後の秀吉は、正勝に仕えていた時期があるとする説もあります。若かりし日、二人の間には明確な上下はなく、むしろ僚友のような関係だったのかもしれません。正勝が武士としての栄達よりも、最後まで秀吉のそば近くにあることを望んだのは、二人の関係の原点が影響していたような気がします。

■紀伊水道に臨む城

 一方、家政は阿波入封から間もなく、徳島城の工事に着手しています。当初こそ阿波の重要拠点の一つであった一宮城に入りますが、大規模な城下町を営むために、平地に突出した現在の場所に平山城を築いたものと考えられます。城地の周囲を吉野川とその支流が流れて天然の堀の役割を果たすとともに、海が近く、水運の便も良い場所でした。古く南北朝時代には、細川頼之が小城を築いたこともあるという立地です。
 一時は阿波も含めた四国の覇者となった長宗我部元親は、織田信長から「無鳥島の蝙蝠」と評されていますが、つまりは当時の四国が中央から辺境地として軽く見られていたことの現われと見ることもできます。そうした中で、紀伊水道を挟んで近畿と対面するこの地に城が築かれたことには、いろいろな意味を見出すことができそうです。四国に変事あらばの鎮定軍上陸地点を確保する意図から築かれた城。辺境の領主として埋没せぬために、あくまで畿内を見据える城。そのどちらの意味も、大なり小なり込められていたのでしょう。
 徳島城は、天正13年(1585)の着工から1年ほどで竣工しています。一説には、城の完成を祝って踊られた踊りが、阿波踊りの起源だとも言われています。

■二つの表情を見せる城

 徳島城址は、JR徳島駅の北側に残されています。徳島駅は、鉄道敷設時に用地の取得が容易だった、城の縄張り内に建築された駅なのでしょう。官公庁となった城跡と同様、駅に隣接する近世城郭の跡は日本各地に多くあります。
 平山城の形態を備える徳島城は、徳島中央公園となった現在でも、城郭庭園や博物館などを備える平地部と、徳島市内を見渡せる山上部の二段構えとなっています。山麓には、水堀の一部や再建された鷲の門などが存在し、旧状を留めています。
 阿波藩の初代藩主・家政の像の前を横切って、山上にある本丸跡へと向かうと、山の上にもよく石垣が残っていることに気付かされます。石垣をまとった曲輪内には、櫓跡があるばかりでこれという建造物も無く、ずいぶん広々とした印象です。古くは天守閣があったと言われていますが、比較的早い時期に破却され、山腹に当たる東二の丸の御三階櫓をもって天守に代えられました。
 城山に緑が良く残されているのとあいまって、街中の城というよりちょっとした山城のような風情さえ漂っています。だからかどうか、地元の中高年の散策コースとして親しまれている様子。山上から、徳島市のシンボルともいえる眉山が良く見えることも関係しているのかもしれません。

(2010年03月08日 初掲)





















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