信玄が敗れ、真田が落とした城。
戸石城
所在地
別名
長野県上田市上野
:砥石城
築城者
築城年
:未詳
:不明


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■小県の拠点

 世に武田シンパは多く存在します。信虎・信玄・勝頼と三代にわたる戦国甲斐武田氏の歴史はまさに波乱万丈栄枯盛衰の歴史ですが、その最高潮とも言える信玄の生涯も、決して順調なばかりのものではありませんでした。信玄の戦歴には、二度の苦い敗北の経験も刻まれています。そのうちの一度が信濃戸石城攻めで、後年「戸石崩れ」と呼ばれることになったこの戦いで、信玄は若き日の彼を支えた宿将を失っています。
 信玄に苦杯を舐めさせたこの城も、築城に至った経緯については不明点が多く残されています。もともと近隣を治めていた真田氏の持ち城だったとも言います。ただ、当時武田晴信と名乗っていた信玄によって攻められた際には、戸石城は埴科郡葛尾城の村上義清の属城となっていました。北信進出と信濃平定を志向する晴信にとって、善光寺平に出る直前、埴科一帯に勢力を張る村上氏は目の上のこぶ以外の何者でもありません。村上の本城を攻める前段階として、小県の重要拠点となっていた戸石城を陥れることは、対村上氏戦略上の必須事項でした。

■戸石崩れ

 晴信は、天文17年(1548)にも村上義清と一戦を交え、敗北しています。それまで連勝を続けてきた晴信が喫した初めての敗戦で、この戦いにおいて武田陣営は板垣信方、甘利虎泰といった武将を失っています。特に諏訪郡代の任に就いていた信方の死によって武田氏による諏訪地方支配の体制に緩みが生じ、それがひいては隣接する伊那・筑摩地方にも波及したため、晴信は苦境に立たされます。中でも大敵になるかと思われたのが反武田の兵を起こした信濃守護小笠原長時でしたが、塩尻峠の電撃戦でこれを打ち破るのに成功したため、晴信はかえって信濃平定への足がかりを作ることができました。
 天文19年の戸石城攻めは、村上義清に対する雪辱戦の前哨戦とも言える戦いでした。なるほど、戸石城は要害堅固の城として知られていましたが、その主である義清は北信の豪族高梨政頼と戦いのために本拠地である葛尾城を空けており、戸石城への赴援はまず考えられない状況でした。ところが、義清は政頼との和睦を予想外の手際の良さでまとめ、戸石城攻めに力を傾注していた武田軍の背後に襲い掛かります。晴信は、古来困難を極めると言われた退却戦を余儀なくされ、横田高松をはじめとする名のある大将たちを討ち取られるという痛手を被っています。これが「戸石崩れ」ですが、考えようによっては退却戦に相応の損害を出しただけとも言える一方、戸石崩れ後に武田氏の信濃支配体制が再び揺らいだと言うようなこともなく、これを大敗と言えるほどのものだったとするかどうかについては人によって評価も分かれるようです。
 ともあれ、晴信も攻めあぐね始めていたと思われる村上義清と、その前線基地である戸石城をあっさりと落としたのが、元来戸石城近くの真田郷を本拠としていた真田幸隆でした。幸隆は地縁を利用した巧みな調略で戸石の城兵を内応させ、大兵力に頼ることなく城を手に入れたのでした。これにはさすがの晴信も驚いたようで、一説にはこの戸石落城が後年の信玄戦術の萌芽となったとも言われています。戸石城が武田の手に落ちたことで小県地方の村上方領主は相次いで武田に下り、急速に力を失った義清は越後の長尾景虎こと上杉謙信を頼って信濃から落ち延びざるを得なくなります。

■連郭式の山城

 戸石城がいつ頃廃城になったのかについては、具体的な史料が残されていません。城周辺が武田氏の領国に組み込まれ、さらに言えば武田氏に与する真田氏の所領となったことでこの物々しい大城郭を維持する必然性も薄れ、自然に衰微していったように思われます。
 戸石城は専門的に連郭式山城と呼ばれる形式の城で、一般には、中核となる本城、北にある枡形城、南にある戸石城、西南の米山城を総称して戸石城と説明されているようです。何だかややこしい話ですが、ここで言う戸石城・枡形城・本城は独立別個の城とするには規模も小さくそれぞれの距離も近いため、要は広範に分布する曲輪群と言えます。少し離れたところにある米山城は出丸ないしは出城と言ったところとするのが妥当でしょう。小土豪の城が多く、近畿などに比べて大規模山城が発達しにくい土壌があった信濃では、これらはあくまで有機的に結合した小城であって、一つの城ではないというように認識されていたと言うことなのでしょうか。なお、手持ちのロードマップでは米山城の名前だけ表記があり、もしかするとここだけは別城とする見方もあるのかもしれません。
 東太郎山の尾根筋に築かれた曲輪群(本城・戸石城・枡形城)はまさしく大規模山城の趣を呈しており見応えがあります。山城としてはかなり広大な範囲に広がっているものの、基本的には一つの尾根を平らに削って作った曲輪群であって、相互の移動もスムーズに行えるのですが、米山城だけは別のピーク上に存在しているため、こちらへの移動はやや手間が伴いそうです。と言うことで米山城は未訪ですが、独立峰全山が城跡と言うタイプの山城に比べれば要所が分かりやすいので、時間が許せば米山城まで見学すると良いでしょう。

(2008年11月30日 初掲)



























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