上杉謙信が武将として立った城。
栃尾城
所在地
別名
新潟県長岡市栃尾町
:舞鶴城
築城者
築城年
:未詳
:不明


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■景虎の元服

 長尾景虎、すなはち後の上杉謙信は、嫡男ではなかったために幼少の頃に春日山城下の林泉寺に入れられました。一説には父・長尾為景との不和が原因だったとも言われ、ことによると一人の僧侶として生涯を終えることになっていたかもしれません。ただ、寺に入れられた当時の景虎は、十にも満たない子供で、父との不仲という話も少々直感的ではない部分があります。
 為景は守護代の身分でありながら、主家にして守護である上杉氏を差し置き実質的に越後の支配者でした。しかし彼の跡を継いだ景虎の兄・晴景が国を統治する力量に欠けていたため、越後国内の政情が不安定になります。そこで景虎が天文12年(1543)に元服し、兄の部将となりました。そして晴景に対して敵対的だった国人・揚北衆制圧の役に就いています。長尾氏の居城春日山城は、南北に長い越後国内では南に偏しており、中越地方に睨みを利かせるため、景虎は栃尾城に入城しました。

■高まる武名と家督相続への道のり

 翌天文13年には、近隣の国人衆が景虎の守る栃尾城に攻め寄せていますが、初陣にしてこれをよく撃退し、若年ながらも武名を高めています。
 一方、文弱気質で体も弱かったと言われる晴景を侮る国人領主は後を絶たず、天文14年には黒田秀忠が晴景に対して謀反を起こしました。二度までも反旗を翻した秀忠でしたが、景虎はそのいずれをも鎮定しています。 晴景と景虎、どちらが大将の器であるかは当時の世人の目には明らかなことだったようで、多くの国人の支持を受けた景虎は、上杉定実のとりなしもあって、19歳にして長尾氏の家督を相続し、春日山城に入城しました。

■栃尾を見下ろす山城

 栃尾は雁木づくりの町として知られているようです。雁木づくりは、雪深い地方で発達した雪よけの屋根で、和式アーケードとでも呼ぶべきものです。もともと日本有数の豪雪地帯だったのに加え、山間にある栃尾はさらに雪が多かったのでしょう。行政区画上は長岡市の一部となった現在でも、市の中心部から山によって隔絶される地形に変わりはありません。栃尾城は町を見下ろすそうした山の一つ、標高227mの鶴城山上に築かれました。
 築城時期は不明ながら、南北朝時代になるとその名が文献に見られるようになります。景虎がこの城に入れられた時期には本庄実乃が城主を務めていました。景虎が春日山城に移ってからも長尾=上杉氏による越後支配の一拠点として利用されましたが、越後に入った堀氏が改易されたとき、廃城となりました。
 鶴城山への登山道は複数あります。登りは岩の鼻口からアプローチしましたが、遊歩道として整備されたこちらのルートは、急な登りを別にすれば歩きやすい道である代わりに、道中に城の遺構らしきものは全く見当たりません。下山時に歩いた諏訪神社奥からの道が、かつての登城路だったのでしょう。こちらの道を踏んで初めて、大空堀や千人溜りなどの遺構をたどることが出来、栃尾城が想像以上に大きな規模を備え、天然の地形をうまく取り込んだ山城であることが観察できます。
 とは言え、夏場の城攻めだったため、草がぼうぼうと伸びて一部その痕跡が判然としない遺構もありました。豪雪地帯であることも考えれば、春の終わりか秋の攻城が望ましい城でしょう。

(2010年09月05日 初掲)





















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