九鬼水軍の城。
鳥羽城
所在地
別名
三重県鳥羽市鳥羽3丁目
:錦城、二色城
築城者
築城年
:九鬼嘉隆
:文禄3年(1594)


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■信長の水軍

 鳥羽城は、織田の水軍として、あるいは海賊大名として知られる九鬼氏の居城でした。九鬼水軍は、その活躍時期から言って、織田の水軍と言うより信長の水軍と言う認識の方が一般的なのかもしれませんが、本来の九鬼氏は熊野本宮大社の神職の流れだったとも言われています。
 いずれにせよ、先祖代々織田氏に仕えた家柄ではなく、その最盛期は九鬼嘉隆が現われ、信長、そして秀吉の元で水軍を率い、軍功を挙げた時期ということになります。その拠点たる鳥羽城はやはり、海に突き出して築かれた海城でした。海からの外観にも意識を配った結果、海側と山側の色が違っていたので、錦(二色)城の異名もあるほどです。

■海賊大名の興隆と終焉

 九鬼氏自体は、戦国時代にいくつか存在していた水軍と呼ばれる集団に良くあるように、海運によって力を蓄えた領主で、大きく雄飛したのは信長と言う主を見つけたたためと言って良いでしょう。信長の伊勢支配以前は、やはり水軍として北畠氏に仕えていた時期もありました。
 鳥羽城が築かれたのは、九鬼氏の歴史から見ればそれほど古い時期の話ではありません。文禄3年(1594)、一族の名を高からしめた嘉隆の、まさにその代に築かれたもので、古くは在地の領主である橘氏の城があった故地に築かれたと言われています。嘉隆の時、九鬼氏は信長の後ろ盾を得て橘氏を倒し、志摩国の統一を果たしました。
 信長の横死後も、秀吉に仕えて五万石を領する大名となった九鬼氏でしたが、関ヶ原の戦いが勃発した際には、親子が東西両軍に分かれることで、家名の存続を図っています。嘉隆が西軍に、子・守隆が東軍についたわけです。戦後に守隆は、敗軍の将となった父の助命を家康に嘆願し、ついに願いは入れられましたが、その報が答志島に逃れていた嘉隆に届く直前、嘉隆は命を永らえるのを諦め、自害してしまいました。
 守隆の代には鳥羽城を守ったものの、守隆存命中から続いた家督争いを幕府に見咎められ、転封の処置を受けています。一族は江戸時代を通して存続しましたが、この際に海から離され、水軍としての実態を失いました。水軍の城としての鳥羽城は、嘉隆一代のものと言っても良いのかもしれません。
 城そのものは、幾たびか城主を変えながら、明治時代まで存続しています。

■現在まで残る遺構

 ミキモト真珠島や鳥羽水族館など、今日も海洋観光を基幹産業として、海と共にある鳥羽市ですが、鳥羽城は鳥羽湾に面する高台の上に築かれていました。かつては本当に海に面した城だったとの記述が見られますが、今日では公園化した三の丸広場から、足下に国道42号を見下ろす形になっています。近年になって埋め立てられたか、もともと城屋敷などがあったところに国道が通ったのでしょうか。
 遺構が最も明瞭に残るこの広場には、一部に石垣が見られます。ただし、訪問時には発掘調査が行われていたため、残念ながら、いかにも城跡らしい地形が認められる辺りには、近づくことが出来ませんでした。
 ただし、二の丸及び三の丸は、寛永10年(1633)に内藤氏が入封した時に拡張されたもので、九鬼氏時代以来の本丸は、比較的小規模なものと推定されています。本丸付近にも野面積みの石垣が残るものの、大半の遺構は明治期に取り壊されたようです。

(2012年02月13日 初掲)















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