山崎合戦の趨勢を決した城。
天王山宝寺城
所在地
別名
京都府乙訓郡大山崎町字大山崎
:山崎城、鳥取尾山城など
築城者
築城年
:赤松範資
:14世紀


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■「天王山」の城

 今日「天王山」と言えば、長期的あるいは大局的勝負の帰趨を決する重要な一戦の意味合いで使われる慣用句となっています。周知の通り、その起源は羽柴秀吉と明智光秀が戦った山崎の合戦に求められます。両雄がその占拠をかけて争った天王山は、現在の京都府乙訓郡大山崎町にありました。
 つまるところ天王山の戦いで知られる天王山ですが、京の都と摂津を結ぶ交通の要所に位置するこの山には、山崎合戦に先立つこと200年ほどの南北朝時代に、摂津の守護であった赤松範資による城が築かれていました。その後、応仁の乱と同時期には、山城守護の山名是豊が城を修築したと伝えられています。応仁の乱以後何かときな臭いことが多くなった畿内において、天王山上に築かれた城も、近隣有力大名間の苛烈な争奪戦に晒されることになりました。
 そうした畿内の戦乱を終息へと導いたのが、他ならぬ織田信長でしたが、その信長は天正10年(1582)6月2日の未明、京の本能寺に宿泊していたところを、突如として反旗を翻した明智光秀に急襲され、自刃して果てました。

■山城合戦

 今もって謎の多い本能寺の変ですが、一つ確かなのは、当時の京周辺に光秀の信長弑逆を阻む勢力がいなかったと言うことです。信長の嫡男・信忠もわずかの手勢を引き連れただけで京に滞在しており、信長の同盟者徳川家康は先だって安土城で信長による饗応を受けた後は、その足で堺見物に出かけていました。織田家中の重鎮であった柴田勝家は、前田利家や佐々成政といった寄騎とともに上杉氏の越中魚津城攻めの最中。滝川一益は京を遠く離れた新領国・上野国で小田原北条氏との睨み合いを続けており、羽柴秀吉は備中高松城を水攻めにしている最中でした。動乱の京に最も近い軍勢は、四国の長宗我部氏を討伐するために大坂で編成されていた織田信孝と丹羽長秀の軍勢でしたが、意外にも光秀討伐に一番名乗りを挙げたのは、中国大返しを成功させた羽柴秀吉でした。
 幸運にも高松城の水攻めで兵力の消耗を避けていた秀吉軍は、長秀らの軍勢と合流することでさらに兵力を増強しましたが、光秀は頼みの細川藤孝や筒井順慶ら、年来昵懇にしていた諸将の協力を得られないまま、二倍以上の兵数を誇る羽柴軍との決戦に臨むことになります。緒戦で天王山上に陣を敷くことに成功した羽柴軍は、結果戦場に良形を作れる体勢を確保し、主戦場となった天王山麓淀川沿いの湿地帯で明智軍を撃破しました。
 戦いに敗れた光秀は勝龍寺城に一時退却せざるを得なくなり、さらには再起を期して居城・坂本城へと落ち延びていきますが、その途中の小栗栖で落武者狩りの手にかかって死んだと伝えられています。

■秀吉の居城として

 山崎の合戦から四百年余りを経た現在の天王山城には、目立った遺構は存在しません。山頂部に井戸跡や比較的大規模な削平が施された形跡がある他は、一部に石垣の存在も認められますが、これら全てが果たして城の一部を形成していたものだったかとなると、ちょっと確証を持ちづらいものがあります。と言うのも、後年の天王山には多くの神社仏閣が建立され、さらにはハイキングコースとしてもかなり整備の手が入れられた状態となっているため、どこまでが純粋な城郭遺構なのかの判断がつきにくくなっているのです。
 もっとも往時の天王山城には、光秀討滅から大坂城築城までの間に秀吉の居城として使われた歴史もあります。初見の印象では「古城址に陣城程度の整備を加えて山崎合戦に望んでいたのかな」程度の認識でいたのですが、秀吉がこの城を本拠地としていた時期が1年ほどはあったとなると、それなりの整備は施されていたのかもしれません。まあ当時の秀吉の活動を追ってみると、この山上の城は形式上の居城に過ぎなかった気もしますが。廃城時期としては、大坂城竣工後といったところが妥当でしょう。
 ともあれハイキング山としてはかなり登り易い部類に入るであろう天王山は、かつて秀吉と光秀の決戦が行われた淀川河畔を見下ろすことができます。展望には本丸、すなはち山頂よりも「山崎合戦之地」の碑が建つ旗立松付近の方が向くでしょう。合戦の際、秀吉はこの場所に旗を掲げて味方の士気を鼓舞したのだそうです。

(2008年10月05日 初掲)





















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