戦国大名浦上宗景、一代の居城。
天神山城
所在地
別名
岡山県和気郡和気町岩戸
:太鼓丸城
築城者
築城年
:浦上宗景
:享禄5年/天文元年(1532)


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■浦上氏の戦国大名化と列強との関係

 戦国時代、備前国を中心として播磨国・美作国に勢力を誇った浦上氏の居城・天神山城です。元々は播磨の守護大名赤松氏に守護代として仕えていた浦上氏は、播磨との国境に近い三石城を居城としていましたが、名実共に赤松氏からの自立を果たした享禄の末年にこの城が築かれました。
 背景には、赤松氏そのものとの争いや、赤松氏を通じて生じた中央の政争への介入戦に一区切りがつく一方、西から勢力を伸ばしてきた石見国の尼子氏や、安芸国の毛利氏への対応が喫緊の課題となったことがあります。
 戦国大名として自立の道を歩み始めていた浦上政宗の時代。浦上氏勢力は、尼子氏の台頭に押されて備前から播磨まで撤退せざるを得ない状況となりました。この状況が変化するのは、尼子氏に遅れて毛利氏が実力をつけ、相対的に尼子氏の勢いに翳りが見え、両者の勢力が拮抗してくる時期のことです。尼子氏の備前支配体制が緩んだことで、浦上氏は備前国内の旧領を回復するまでになりましたが、皮肉なことに、こうした勢力情勢が新たな問題を生むことになります。すなはち、家中における尼子氏派と毛利氏派の対立であり、この対立は、とりもなおさず当主・政宗と弟・宗景の対立でした。

■宗景の戦い

 毛利氏と結んだ宗景は、兄と袂を分かって天神山城を築き、その拠点としています。時に享禄5年(1532)。宗景は、政宗や尼子晴久を相手に、毛利元就の支援を得ながら強かに戦って、備前国内に独自の勢力基盤を築くことに成功し、さらには毛利氏からの独立傾向を強めつつ、備中の三村氏との対決に臨むまでになります。対する政宗の系統はと言うと、政宗とその嫡男・清宗が赤松政秀によって殺害され、その跡を継いだ誠宗もまた家臣に暗殺されていました。誠宗の死は、一説に宗景が関与したものだったとも言われていますが、こうした経緯を経て、一時は分裂した浦上氏勢力は、宗景の元に再び束ねられました。
 同時期となると、古豪赤松氏はかつての勢いを失い、東からは織田氏の影響が及ぶようになっていましたが、浦上氏は織田氏と結び、毛利氏に対抗する道を選びました。
 しかし、浦上氏による三国支配は思いもかけないところから破綻を迎えました。麾下の将として、あるいは従属的協力者として、宗景の勢力拡大を支えてきた宇喜多直家が、表面上は政宗の系譜の再興を大義名分として反旗を翻したのです、これをきっかけに、在地の反宗景勢力や毛利氏が一斉に宇喜多氏支援へと走り、天正3年(1575)になって宗景は天神山城を追われました。
 以後の宗景は、信長の支援で長らえ、一度は天神山城の奪還を果たすまで肉薄したものの、かつての勢力を取り戻すには至らず、史料上の浦上氏に関する記述もほとんど見当たらなくなります。
 城は、浦上氏と宇喜多氏の戦いが決着した頃に廃城となったと考えられています。

■多く残る遺構

 備前国内においては、やや東に偏した場所にありながら、事ほど左様に戦国備前の最重要拠点の一つであったと言える天神山城。それだけに、随分早い時期から訪ねてみたいと思う城の一つではありましたが、それに反して攻略までには随分と時間がかかりました。前述したとおり、岡山県内ではやや辺鄙なところにあり、公共交通機関でのアクセスは少々厳しいものがあるためです。結局、最寄り駅となるJR和気駅から1時間以上も歩いて、ようやく登城口に取り付き、そこから40分ほども歩いて主郭部にたどり着くと言う長行程の城攻めとなりました。
 しかし、残存遺構も多く、一般ハイカーも多く集まる好展望の城であるため、苦労するだけの甲斐はある城だと言えるでしょう。構成としては、前期の城跡に相当する太鼓丸城と、後に築かれた天神山城の複合する城跡で、天神山の尾根筋のかなり広範囲に展開された縄張り内には、石垣、空堀、竪堀、犬走り、石門などと言った機構、戦時に用いられたと考えられる軍用石が残されています。また、山腹には侍屋敷の跡も残されており、使用された期間は短かったもの、中国地方東部を代表する戦国大名の城にふさわしい規模を誇っていたことがうかがえます。

(2011年07月03日 初掲)





















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