国人領主玉置氏が残した山城遺構。
手取城
所在地
別名
和歌山県日高郡日高川町大字和佐
:なし
築城者
築城年
:玉置氏
:不明


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■雑賀衆と玉置氏

 手取城は、紀伊の豪族・玉置氏によって築かれた城です。
 戦国好きのサガみたいなもので、よく「信長の野望」シリーズをプレイすることがありますが、基本的に同作の紀伊国は、雑賀孫市こと鈴木氏の一門が支配する国のように扱われています。ゲームとして分かりやすくする都合上やむをえない物でしょうが、実際に紀伊国を支配していた大名は畠山氏で、雑賀衆それ自体も、鈴木氏が盟主を務める集団ではなく、国人領主同士の緩い合従連合のようなものだったようです。
 そうした中では影が薄い手取城ですが、烈風伝には辛うじて登場していた記憶があります。玉置氏の名前は出て来ませんでした。こんなことを書いている時点での最新作「天道パワーアップキット」では、自治体や他媒体とのタイアップで武将をダウンロードできる企画が行われており、和歌山市とのタイアップでは知る人ぞ知る雑賀の将もダウンロードできますが、その中に玉置氏の一門の名はありません。玉置氏の立ち位置は、歴史的に重要なわけでも、格別の話題性があるわけでもなさそうです。

■その最後と遺構

 実に他愛もない話が続きました。
 手取城は、築城年代等について多くの不明点を残しますが、中世を通じ玉置氏の居城であったと考えられています。豊臣秀吉の紀州征伐に際し、紀伊の国人たちは、秀吉に従属する者・反抗を選ぶ者に二分されましたが、秀吉の軍門に下ることを選んだ玉置氏の手取城は、抗戦を選択した湯川氏によって攻め落とされました。その後、玉置氏が手取城に戻ることはなく、時々の天下人に臣従しながら命脈を保ったと言われています。城はそのまま廃城になったものと考えられます。
 戦国山城の残存遺構の規模・保存状態については和歌山県内屈指とも謳われる手取城の跡には、一見の価値があります。この城の訪問も夏場のことになり、この時期のマイナーめの山城の例に漏れず、伸びた下草で地形を読み取りにくくなったところはありましたが、数段から構成される主郭、その防備を司る土塁・帯曲輪、人工的に尾根筋を断ち切った堀切と思われる地形など、見所は多くありました。最高所の曲輪に散乱していた一抱えほどある石は、礎石か、石垣の成れの果てか、単なる自然石でしょうか。
 一応は主郭部まで車で入り込める山城跡ですが、途中に道路幅員の狭い箇所があり、車で訪問する際にはそれなりに慎重であることが求められます。

(2013年02月20日 初掲)

















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